ショートストーリー from 妄想相関図

vol.1「Swim in the Destiny」

 

これは、先日5回にわたって公開した「私をとりまく妄想相関図」をもとに生まれた物語。

「私をとりまく妄想相関図」を読んでいない方は、Part1からご覧になって、再度こちらへお越しください)

 

私の妄想が暴走しまくった結果、そこに登場する人たちを代わる代わる主役にして、ちょっとしたショートストーリーが書けちゃうんじゃないか?と思ったのが発端。

 

2つほど異なるストーリーが浮かんだのだけれど、まずは主役をフィーチャーすべきでしょ!と思い、私と夫の出会いについて書いてみた。

 

いったん、主な登場人物をご紹介。

※「私」は、自分と仮定すると恥ずかしくて何も書けないと思ったので、もはや、長谷川潤にしています。


私(ジュン)

 

30代前半のエッセイスト。女性誌3誌と2つのWEBマガジンで連載を抱えつつ、書き下ろしエッセイ集の執筆にも忙しい。幼少期をハワイで暮らした帰国子女。


2匹の猫と、優しい夫と都内のマンションで暮らしている。旅行とお酒と料理が趣味。自宅でホームパーティを開くのが好き。

夫(ジェイク・シマブクロ)


ジュンの夫。ハワイ出身の世界的なウクレレ奏者で、映画音楽なども手掛けている。1年の3分の1は、世界ツアーに出掛けている。


いつも朗らかでピースフルで、謙虚。ジュンの仕事を理解し、尊敬してくれている、ステキな旦那さま。

竹野内さん

 

ジュンの出版社時代の元上司。今は独立して、編集プロダクションの社長になっている。私の良き相談相手で、よき理解者。私がフリーランスのエッセイストになった時も、「お前ならやれるよ」と背中を押してくれた。 

まさみ

 

ジュンの高校時代からの親友。さばさばした性格で、面倒見も良く、誰からも好かれるステキな女性。モテるが自分から好きになった人としか付き合ってこなかった、恋愛の達人。ジュンの兄の妻でもある。


 

さて、ここからが本編です。長いので、ここだと読みにくい人もいるかも?

 

Googleドキュメントでも見られるようにしたので、そちらの方がベターな人は、こちらから。

 



Swim in the Destiny

 


優美な薔薇の香りのするバスソルトは、夫が不在のときにしか使わないと決めている。私にとっては癒しの香りも、どうやら彼には強烈過ぎるようだ。初めてこのバスソルトを入れた日、何とも言えない苦い顔をして風呂から上がってきた夫の顔がよみがえり、私は「ふふっ」と小さく、思い出し笑いをした。

 

明日、2週間ぶりに夫が自宅に帰ってくる。夫はプロのウクレレ奏者でヨーロッパ数国をまわるツアーが昨日、終わったばかりだ。十数枚のCDを出しているほか、映画やドラマの音楽も手掛けている。世界のあちこちでコンサートツアーを開催していて、1年の3分の1は日本にいない。

 

新婚当初は「旦那さんが家にいなくて寂しいでしょう」と人に尋ねられると、よくぞ聞いてくれましたとばかりに、散々寂しい胸の内を吐露していたけれど、結婚4年目ともなると慣れたもの。ひとりの時間は、才能があるからこそ多忙を極める彼を誇りに思う時間だ。

 

それに、ひとりでいることで、ふたりでいることが当たり前ではないことも実感できる。「亭主元気で留守がいい」という言葉は、普通はあまりいい意味では使われないけれど、私は、実際の意味は別のところにあるんじゃないかと、彼と結婚してから、そう思っている。

 

薔薇の香りのバスソルトを入れる、友人と彼の苦手なもつ鍋を食べに行く、目覚まし時計をかけずに眠る。私は、夫の不在を自分なりに楽しんで暮らしている。

 

芳醇な香りが漂うお湯のなかでゆらゆらと手を動かしながら、明日の夕飯の献立を考える。きっと彼は日本食を恋しがっているはずだ。鯖の味噌煮と、筑前煮と、あさりの酒蒸しと、じゃこをたっぷりかけたほうれん草のおひたしと。お土産で友人にもらったばかりの新潟のお酒も、冷やしておこう。

 

「うん、パーフェクト!」

 

ひとり言を言う癖も、結婚後に身についたものの一つだ。


夫と私は、5年前に仕事を通して知り合った。当時、私は勤めていた出版社を辞め、エッセイを書く仕事一本でようやく食べていけるようになっていた。そんな私に「なぁ、ジュン。うちの雑誌でインタビュアーをしてみないか」と、声をかけてくれたのが、出版社時代の元上司・竹野内さんだった。

 

「ジェイク・シマブクロって知ってるか?ハワイ出身のウクレレ奏者で、日本の映画にも曲を書いている…」

 

「あ、映画見ましたよ。10年くらい前でしたっけ。『フラガール』!」

 

映画『フラガール』は、福島にある「スパ・リゾート・ハワイアンズ」を舞台に、フラガールたちの成長を描いた物語。大ヒットし、日本アカデミー賞にもノミネートされた。その劇中の音楽を手掛けたのが、日系3世でハワイ在住のウクレレ奏者、ジェイク・シマブクロだった。

 

「そうそう、良かった、知ってて。その『フラガール』の縁で、彼は毎年、福島でチャリティーコンサートをやってるんだよ」

 

「へぇ、それは知らなかったです」

 

「それで今度、そのチャリティ活動を題材にして、2月号で特集を組むんだ。インタビューと言うよりも、ジュンと彼の対談みたいな位置づけにしたいと思ってる。お前、ハワイ生まれだし、通訳もつけなくて済むし、ちょうどいいなと思ってさ」

 

「えー!経費削減ですかー?」

 

「ははは。まぁ、それもあるけど、なんとなく、お前に会わせたいって思ったんだよ」

 

「それ、どういう意味ですか?」

 

「たぶん、会えばわかるよ」


そうして私は、彼と会うことになった。

 

私は、楽器の輸入業を営む父の仕事の都合で、小学6年生までをハワイで暮らした。中学校の入学と同時に日本に移住してきたが、中学も高校もインターナショナルスクールに通っていたこともあり、私にとって、英語は日常的なコミュニケーション手段だ。国籍は日本だし、日本の出版社に就職して、今、日本語で文章を書く仕事ができているから、もちろん日本語もネイティブではあるのだが、母語はどちらかと聞かれたら、英語だと答えるだろう。

 

「会わせたいと思った」という言葉の真意を竹野内さんは教えてくれなかったし、私と彼にあるのは、ハワイ生まれという共通点だけ。「随分ざっくりした理由で依頼してきたよなぁ」と、当時の私は、そんなふうに思っていた。

 

過去のインタビューを読み、CDを買って曲を聴き、YouTubeで動画を見て、SNSをcheckして。2カ月間、じっくりとインタビューの準備をしているうちに、私はすっかり彼のファンになっていた。ハワイの人は基本的に、明るくて、温かいのだけれど、彼には人並み以上の天真爛漫さや謙虚さがあるように思えた。

 

小さなウクレレを魔法の楽器に変えてしまう巧みな演奏技術にはとにかく感動したし、尊敬の念すら覚えた。私のなかで、一人の人間として、彼に聞きたいことがどんどん膨らんでいった。インタビュアーとして大切なのは、取材相手に興味を抱くこと。その点において、私はそのとき、超優秀なインタビュアーだったに違いない。

 

 

対談は、都内の音楽スタジオで行われた。日系3世である彼は、ハワイと同じくらい日本が好きで、日本での仕事も多いことから、数年前から住まいを日本に移していた。スタジオは彼がいつもレコーディングやコンサートのリハーサルを行っている場所。いちファンとして、そんな聖地のような場所に足を踏み入れられることに、興奮したのを覚えている。

 

冷静なインタビュアー根性と、熱いファン心理。双方のバランスを上手くとることに、私はとにかく注力した。対談は、あっという間に終わってしまった。楽しむ余裕なんて全くなくて、そのときのことは、正直あまり覚えていない。後から録音した音声を聞き、「こんなこと話してたんだ!」と驚くことが多かったほど。笑顔でお礼を伝え、彼とマネージャーを見送った後、緊張の糸が解けて、「はぁ~」と、私は大きなため息をついた。

 

同席した竹野内さんには「お前に頼んで良かったよ。いい特集になるぞ」と誉められた。

 

そして、また、こうも言われた。

 

「よく泣かなかったな」

 

「え?」

 

「穏やかで優しい人だけど、ものすごく熱い気持ちが伝わってきたでしょ。途中、あぁ、これ、ジュンは感動して泣いちゃうだろうなって思ってたけど。耐えてたの?」

 

「あ、いや、実はあんまり覚えてなくて…」

 

「え?」


その夜、風呂上がりにビールを飲みながら、私は90分ほどのインタビューデータを聞き直した。なぜ音楽を生み出すのか、なぜ誰かの前で演奏をするのか、なぜ福島に通い続けるのか。彼の答えには、愛しかなかった。私は、つけたばかりの高い美容液が流れ落ちてしまうことも気にせず、号泣した。そして「彼にまた会いたい」、そう思ったのだった。

 


それから3カ月後、対談記事が載った雑誌が世に出た。それと時を同じくして、彼は日本国内でコンサートツアーをスタートさせた。私は東京公演のチケットを自分で手配していたのだが、それより前に、彼に会えることになった。ツアー直前に行う福島でのチャリティーコンサートに招待してもらえたのだ。東京駅で竹野内さんと待ち合わせ、新幹線で一路、福島へ。コンサート会場は、町の小さな小学校の体育館だった。

 

観客は近隣の小学校の児童と、保護者たち。老人会なのか、一角に、かわいらしいおばあちゃんとおじいちゃんの集団も座っていた。ときに子どもたちにウクレレを触らせ、ときに流行りのアニメの主題歌を弾き、ときに古い歌謡曲で大人を盛り上げ。いい意味で「コンサート」という雰囲気はそこにはなかった。その場にいる一人一人に寄り添うように温かな音を奏でる彼の姿、そして、それを受け取る人たちの屈託のない笑顔に、私は心を奪われた。

 

彼のマネージャーの話によると、例年、入場希望者が多くて入り切れない人がいるからと、今年は午前と午後で観客を入れ替えて、1日2回公演をすることに決めたのだという。さらに、午前と午後の公演の間には、駅前の広場で行われた追悼式に出向き、震災が起きた14:46、集まった人たちと黙祷をして、追悼の曲を弾いた。

 

その音色は、さっきまで体育館で聴いていたものとはまったく違うもののように感じた。死者に祈りを捧げるかのような、悲しいけれど、力強い音色。亡き人を想い、涙を流す人たちの傍らで、私もいつの間にか泣いていた。「ほら」と、ティッシュペーパーを差し出してくれた竹野内さんの目にもまた、涙があった。

 

「少しでも人の心が動くのなら、僕は音楽を届け続けたいんです」

 

私は、対談での彼の言葉を思い出していた。

 


彼とは現場ではほとんど話すことができなかったが、東京に戻ってすぐ、私は彼のマネージャー宛てにメールを送った。彼の直接の連絡先は知らなかったから。対談では、あまりに緊張していてほとんどの記憶が飛んでいること、その後に録音データを聞いて号泣したこと、福島での演奏を聴いて感じたこと…。長ったらしくて、全部は読んでもらえないかもしれないけれど、溢れる想いをどうしても伝えたくて、綴ったメールだった。

 

2日後、知らないアドレスから、メールが届いた。それは、彼のプライベートなアドレスからのものだった。

 

「心がこもったメールをありがとう。とてもうれしかったです。

良ければ今度、食事に行きませんか?

Aloha! Jake.」

 

メッセージは、私が書いた30分の1くらいの短さだったけれど、そんなことはどうでもよかった。

 

「どうしよう…!」

 

胸の高鳴りをおさえられないまま、私は30分以上、部屋の隅から隅までウロウロして、胸の内とは真逆の、スマートな返事を考えた。でも、はっと気が付いた。あんなにもむさ苦しい、感情丸出しのメールを送りつけておきながら、何を今さら。

 

こうして、私たちは初めてふたりきりで会うことになったのだった。食事の日取りが2週間後に決まると、私は親友のまさみを自宅に呼び出した。まさみは、私から久しぶりに聞く恋バナに、大興奮している。

 

「それでさ、食事のときにね…」

 

「わかってるよ!服、選ぼ!はい、早くクローゼット見せて!」

 

高校時代も、こうしてまさみにデートの服を選んでもらっていた。私以上に私に似合うものをわかってくれている女友達。ダメなものはズバッと言ってくれ、本当に頼りになる。

 

「このワンピースが第一候補なんだけど…」

 

「対談のときもキレイ目のワンピースだったんでしょ?福島で会ったときは?」

 

「このパンツスーツ…」

 

「なるほど。じゃあ、今回はカジュアルだ。ごはんの店はどんな感じのとこ?」

 

あれやこれやと、ファッションショーは1時間半も続いた。靴とバッグ、香水も選んでもらい、さらには髪型とメイクのアドバイスも受けて、外見の準備は完璧。あとは、心の準備をするだけだった。

 

「向こうには…、あ、ジェイクさんには、ジュンがファンだってバレてるんでしょ?」

 

「うん、思いっきりファンっぽいメールしたからね…。それが逆に嫌なんじゃないかと思って…。重いと思われないかな?」

 

「何言ってんの?ファンだとわかってて食事に誘ってるんだから、そういう素振りを見せない方が、おかしいに決まってるよ。いいんだよ、好きです!っていうテンションでいけば!」

 

恋愛において、百戦錬磨のまさみのアドバイスは、いつも正しい。気負えば気負うほど、緊張してまた記憶を失ってしまうだろうから、なすがままに。ふたりで、Let it beを歌いながらビールを飲み、親友との楽しい夜は更けていった。

 

 

その夜、私は饒舌だった。好きな人の前では話せなくなってしまうと思っていたけれど、彼の纏うピースフルな空気感が、そうさせなかった。仕事のこと、家族のこと、音楽のこと、そして、ハワイのこと、日本のこと。取り留めなく、いろんな話をした。最初は上品に笑おうとしていたのに、いつの間にか、気付けば大笑いをしている自分がいた。

 

そしてそれは、彼も同じだった。何がそんなにツボだったのか忘れてしまったけれど、彼の学生時代の友人の話で、ふたりして涙を流すほど笑ったことを、今でも覚えている。

 

それから私たちは、頻繁に会うようになった。彼は海外でもコンサートをしているから、2~3週間会えなくなることもあったが、度々、海外と日本をつないでテレビ電話もした。そろそろ、次のステップに進んでもいいのではと思っていたある日のこと。またも笑い過ぎた食事の帰り道、彼はこう言った。

 

「あのさ。来月、ハワイでコンサートがあるんだけど、一緒に来ない? …僕の彼女として」

 

それは思いがけない、そして待ち望んでいた愛の告白だった。私が二つ返事で承諾したことは、言うまでもないだろう。

 

 

ハワイでのコンサートは、3日間。私は締め切りを守ることを条件に、遅い夏休みと称して無理やり休暇をとりつけ、1週間ほどハワイに滞在した。彼はコンサートのリハーサルがあるので、私は、日中は持参したパソコンで原稿を書き、夜は客席の一番後ろで彼の雄姿を惚れ惚れと眺めた。

 

それはとても幸福な時間だったけれど、深夜、つい数時間前までステージ上で観客を魅了していた人が、隣でスヤスヤと眠る姿に、不思議な感覚を覚えた。彼の隣にいるのが私でいいんだろうかと、不安がこみ上げてくることもあった。そんなとき、やはり頼りになるのは、百戦錬磨のまさみ様だ。

 

「何言ってんの?彼は、ジュンをみんなに自慢したくて、わざわざハワイまで連れて行ってるんだよ?」

 

ハワイでしか買えない、話題のコスメを大量に買っていくことを約束して、私は親友との国際電話を切った。

 

地元・ハワイでのコンサートは、盛況のうちに幕を閉じた。海の見える屋外ステージだったこともあり、好き勝手に踊り出す客が続出。そんなハワイらしい雰囲気が満載の素晴らしいひと時だった。コンサート後、私たちは日本への帰国まで2日間ほど予定を空け、つかの間のバカンスを楽しむことにしていた。何の予定も立てていなかったのだけれど、「連れていきたい場所がある」と、2時間ほど車を走らせた。

 

そこは、青い海を見渡せる丘の上にある、小さなウクレレ工房。生垣に囲まれた敷地内には、赤い屋根の平屋建てが2つ。そして、おそらく住居であろう青い屋根の平屋が1つあり、その傍らでは、白いブランコが揺れていた。その風景を見た瞬間、私の胸に突然、懐かしさがこみ上げた。

 

「あれ…?」

 

「どうしたの?」

 

「もしかしたら、私、ここに来たことがあるかも…」

 

彼は驚いた顔で「本当?」と尋ねた。

 

一気に、いろんな記憶がよみがえってきた。そうだ、あれはおそらく7歳か8歳のとき。ドライブがてら、家族でこの近くに遊びに来た帰り道にここで父が急に車を止めたのだ。父は、ハワイでいくつかのウクレレメーカーと契約し、それを日本に輸出していた。ハワイ中のあらゆるウクレレ工房に足を運んでいた父だったが、ここのことは知らなかったらしい。

 

アポなしで訪れた家族連れの日本人を、恰幅のいい工房の代表者は、快く迎えてくれた。結局、工房自体に大量生産できる体力がなかったことから、契約には至らなかったようだが、その後も、父はひとりで何度かここに訪れている。

 

「ここは…?」

 

車のドアを締めながら、彼に聞く。

 

「僕のウクレレの師匠の家だよ」

 

と彼は答えた。

 

幼少期、彼の家族はこの近所に住んでいて、彼は、弟と一緒に、自然と工房の敷地内で遊ぶようになったのだという。工房のおじさんは、よく、彼らにウクレレを弾いて聴かせていた。そして、物心がつくかつかないかの頃、「弾いてみるか?」と、古いウクレレをプレゼントしてくれたのだ。そこから、彼のウクレレ奏者としての人生が始まった。

 

「あそこのブランコに乗って、弟としょっちゅう弾いてたんだ。楽しくて、朝から晩までずっと弾いてた」

 

それを聞いて私はひとり、立ち尽くしてしまった。…会っている。私たちは、子どもの頃、その白いブランコの前で、会っている。父が工房の代表者と話をしている間、私たちきょうだいは工房の敷地内を走り回って遊んでいた。そして、私は、うっすらと聴こえるウクレレの音色に導かれるように、ブランコの方へ歩いていった。

 

そこにいたのは、私より少し年上の男の子。ブランコに腰掛けて、楽しそうにウクレレを弾く姿。私に気が付いて、男の子は「Hi!」と声をかけてくれた。でも、当時人見知りだった私は、何の返事もすることなく、そこから走って立ち去ってしまったのだった。

 

「アンビリバボー!」

 

22~3年前、私たちはここで確かに会っていた。ふたりともその事実に驚き、しばし言葉を失った。そして、私は、確信めいた思いを抱いた。

 

「これは、運命だ。この人は、運命の人なのだ」と。

 

彼も、そのとき、同じ気持ちを抱いたに違いない。お互い、口にさえしなかったけれど、その後の私たちは、それまでと何かが違っていた。運命の出会いに恵まれたこと、そして、隣に運命の人がいるという、高揚感にも似た雰囲気がふたりを包んでいたように思う。そしてその高揚感は、次第に、安堵感のようなものに変わっていった。

 

運命の人に出会ったのだから、もう怖いものなんてない。人が漠然と抱く孤独に対する恐怖。それが目の前から消えてなくなったような気がした。風の音も、海の色も、その瞬間を境に鮮明になったような気さえしたのだから、不思議だ。

 

このことを話すと、家族も、友人も、仕事の関係者もみんな、こちらは何も言っていないのに、「それは運命だよ!」と口をそろえて言った。それからすぐ、まるで当然のことのように、最初から決められたことであったかのように、私たちは結婚を決めた。出会って1年足らずで、私たちは夫婦になった。何の疑いもなく。運命という言葉の甘美な響きに、私たちは酔っていた。

 

 

しかし、運命だなんて、なんと馬鹿馬鹿しい勘違いだったのだろう。今になって、私たちはそれを思い知らされている。もちろん、私は彼のことを愛している。彼もまた、同じ気持ちでいてくれているはずだ。夫婦仲が悪いわけではないし、結婚を後悔してもいない。

 

ただ、あまりにも運命を信じ込んではいけない、運命に寄りかかり過ぎてはいけないということを、3年と少しの夫婦生活で、私たちは徐々に理解していった。

 

きっとこうしてくれるだろう。言わなくてもわかるだろう。このくらい許してくれるだろう。なぜなら、「運命の人」だから。

 

なぜこうしてくれないんだろう。察してくれないんだろう。大目に見てくれないんだろう。「運命の人」のはずなのに。

 

ちょっとしたすれ違いや、相手に対する甘えや思いやりのなさが、日々、積み重なっていくのを感じた。

 

そしてある日、気が付いた。あんなにまぶしく輝いていた「運命」というものは、何の根拠もない概念でしかないということに。私たちが幼い頃に偶然出会っていたという事実は揺るがないし、奇跡的なことだと思う。そして、運命というものを否定するつもりもない。けれど、運命に身をゆだね過ぎると、ろくなことはない。

 

「酒は飲んでも飲まれるな」じゃないけれど、「運命は浸っても溺れるな」なのである。

 

運命の波間を、手を取り合って上手に泳いでいくような、そんなふたりでいよう。いろんなことが溜まりに溜まり、出会って初めて嵐のようなケンカをした翌日、私たちはあらためてそう誓い合った。それは、結婚式の誓いの言葉よりももっと重く、大切なものになった。

 


身体からほのかに薔薇の香りを漂わせながら、濡れた髪のまま、風呂上がりのビールを開ける。ベランダに出て、静かに流れる雲を見上げる。そろそろ陽が落ちる時間だ。夫は今ごろ、空の上だろうか。

 

私は、明日の予定を頭の中でシミュレーションする。掃除をして、仕事をして、買い出しをして、料理を作り、夫の帰りを待つ。忘れないよう、今日のうちに日本酒は冷蔵庫に入れておこう。今日は目覚まし時計をかけて寝なくちゃ。

 

「運命、か……」

 

私は小さくつぶやいて、ひとくち、ビールを飲んだ。夕暮れ時のやさしい風が、温かな頬を撫でた。




 

ご拝読、ありがとうございました!!!

vol.2に続くかも…?