日日是好日

(監督:大森立嗣/主演:黒木華/2018年)

大人になると、それまで気にも留めなかった季節の移ろいや自然の営みが、美しく、愛おしく見えてくる。
今夜は月がキレイだとか、桜が芽吹いてきたとか、吐く息が白くなったとか、金木犀が香るとか、蝉が鳴いているとか。

 

それはきっと、この日々の暮らしがかけがえのないものであると、どこかで意識し始めるからなのではないだろうか。
そして、その暮らしの根底を成す四季や自然に親しみのような、敬意のような感情を少しずつ抱き出すからなのではないだろうか。

 

この映画を見て、ふと、そんなことを考えた。

 

この物語では、もっと確かに、でもじんわりと風情を感じながら、「今この瞬間」を味わう感覚を身につけるものとして、「茶道」がフィーチャーされている。

 

私の茶道の経験と言えば、イベントなどの1コンテンツとして、たててもらったお抹茶を飲んだことがあるくらい。茶道の何たるかを私は全く知らなかったし、興味もないというのが正直なところだった。

 

しかし、茶道になぜ「道」という字がついているのか、物語を通してそれがわかるにつれ、その奥深さに心を奪われた。

 

何か夢中になれるものを見つけたいと思っている大学生の典子(黒木華)は、いとこの美智子(多部未華子)と一緒に、近所の茶道教室に通い始める。そこでふたりを指導するのが、樹木希林演じる、武田先生。

 

序盤、茶道の作法の複雑さに典子と美智子が苦戦する様子が描かれている。先生に言われるがままに、動くだけ。間違えると「違う」と指摘される。こういうシーンが結構長く続いて、私も典子と美智子と同じように「茶道って、おもしろくないな…」と、見るのをやめようかと思ってしまった。でも、そこは辛抱。

 

「茶道」はその名の通り、茶の道である。道はそう簡単には極められないし、道の先にあるものは簡単には見ることができない。コツコツと歩んでこそ、たどり着ける境地があるのである。それは、歩みを止めなかったものだけが見ることのできる景色だ。

 

お稽古を続けるうちに、何も言われなくても順序を覚えて、手が勝手に動くようになる。注ぐときのお湯と水の音の違いがわかるようになる。季節ごとに掛け変わる掛け軸の風情を感じられるようになる。雨の音が季節によって違うことに気づく。

 

茶室には必ずその季節を表す花や掛け軸が飾られるし、茶菓子も旬の花をモチーフにしたものなど、毎回違うものが用意される。夏と冬では茶をたてる際の作法も異なるらしい。そうして、否が応でも季節を感じる場に身を置いて、その瞬間に集中する。

 

それを積み重ねることで、五感が研ぎ澄まされて、春夏秋冬というざっくりした季節だけでなく、立春、立冬など日本古来の細かな季節の移り変わりすら、感じられるようになるのだ。

 

そして、知らぬ間に心が整っていく。

 

「大人になった」というだけでも、季節や自然に敏感になるけれど、茶道を極めると、それとは比べものにならない境地にたどり着く。季節と共に生きる、というか、自然に生かされる、というか。

 

当たり前の日常が色濃く、豊かになっていく。

 

大きな失恋、身近な人の死、他人と比較して覚える劣等感…。そんな人生の谷間にも、茶道が典子に手を差し伸べる。道を極めし者が持つ大きな拠りどころがとてもうらやましく思えたが、それを手に入れるまでの過程の重さに、身震いさえ覚えた。

 

「世の中にはすぐわかるものと、すぐわからないものの2種類がある。すぐにわからないものは、長い時間をかけて少しずつわかってくる」。


これは典子の言葉。

 

瞬時に白黒つけなくてはならない、すぐに結果を求められる。人生、そんな場面が多いけれど、そうでないものを追い求める側面があってもいいな、あったらいいなと思った。

 

それにしたって、20歳から44歳までを演じた黒木華の演技力たるや。野暮ったい大学生が、徐々に凛とした大人の女性に変わっていく様を見事に演じている。そしてそれに、まったく無理がない。とってもナチュラルな変わり方。

 

序盤、多部未華子とのシーンが多くて、黒木華がかなり見劣りする(多部未華子が断然かわいいし、華がある)から、この子が主役で大丈夫?公開処刑なのでは?と思ったが、なるほど、こういうことか。


典子の成長の過程と、年を重ねて人としての深みを増した典子は、黒木華だから演じられるんだなと、すべてを見て、納得した。

 

とは言え、樹木希林の存在感には誰も叶わない。まるで武田先生という人が実在するかのよう。信じられないほどに自然体でそこにいて、セリフではなく自身の言葉で話しているみたいだった。

 

とても地味だけれど、とても大きな何かを教えてくれる作品。こういうじんわり心に響く映画が、私は好きだな。