Part2  阿久悠先生 超一流アスリート説(2020.5.4)

 

私が作詞家・阿久悠先生を「先生」付きでちゃんと呼び出したのは、7~8年ほど前のことだろうか。当時、私は「ジュリー」こと沢田研二にどハマりして、夜中までYouTubeで動画を見漁っていた。

(誤解のないように言っておくと、現在進行形のジュリーではなく、60年代後半~80年代前半の超絶かっこいいジュリーのことね)

 

「カサブランカ・ダンディ」だの、「時の過ぎゆくままに」だの、「サムライ」だの、「ダーリング」だの、ジュリーの数々のヒット曲を聴くにつけ、必ず目にする「作詞:阿久悠」の文字。

 

もちろん、その存在も、有名な曲をたくさん書いているという実績もざっくりは知ったけれど、ジュリーを通してあらためてその歌詞の世界観に脱帽した。

 

また、当時通っていた歌謡曲Bar「ヤングマン」でも、聴く曲、聴く曲にその名が登場し、「何、この人!すごすぎる!」と驚愕。それからは彼を「先生」の敬称なしでは呼べなくなったのだ。


私、一度ハマるとすごいので、先生の母校・明治大学にある「阿久悠記念館」にも足を運んだし、先生の著書を何冊も購入して拝読したりして。

 

そうして仕入れた情報でわかったのは、阿久悠先生って、本当にストイックで、どうしようもないほど仕事熱心で、心の中で燃える情熱を糧にして、持てる才能を次々に放出していったんだってこと。


その姿はまるで、超一流のアスリートのよう。ご存知の方も多いと思うが、私はスポーツが大好きでアスリートという人種を心から尊敬している。だからこそ、阿久悠先生のその生きざまに触れ、「お慕い度」が爆上がりしたのだった。

 

その類まれなる「才能」、歌で時代を動かそうとした「熱意」、時代を歌に反映させるために寝る間を惜しんだ「努力」、そしてヒット曲メイカーとしての孤高な「プライド」。それを持ち合わせた天才、それが阿久悠先生である。

 

「才能」

「熱意」

「努力」

「プライド」

 

これらの要素を持ち合わせ、そして今なお語り継がれる偉大な人物であるという事実。王貞治のことだろうか?長嶋茂雄?浅田真央?三浦知良?いいえ、これは、作詞家・阿久悠先生のこと。

 

今回は、阿久悠先生がどれだけすごい人なのかを、先に挙げた4つの要素を踏まえて、超一流アスリートとの共通点とともに、大いに語ろうと思う。

 

まず、これを見てほしい。

 

・昭和46年「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)

 

・昭和51年「北の宿から」(都はるみ)

 

・昭和52年「勝手にしやがれ」(沢田研二)

 

・昭和53年「UFO」(ピンク・レディー)

 

・昭和55年「雨の慕情」(八代亜紀)

 

この輝かしい日本レコード大賞最優秀賞の受賞歴は、まるで浅田真央のGPファイナルでの戦績を見ているかのようだ。

(※浅田真央GPファイナル金メダル獲得:2005、08、12、13年)

 

 やっぱりすごいな、阿久悠先生。


<阿久悠先生の才能>

 

阿久悠先生は、最初から作詞家として活躍していたわけではない。最初の勤め先は広告代理店だったのだ。そこでCMの絵コンテを描くなど企画の仕事をしながら、会社に内緒でラジオの構成作家との二足の草鞋を履いていた。

 

その構成作家時代に、たまたま「作詞もできるのでは?」と声をかけられ、作詞家としてデビューすることとなった。が、彼が本当にやりたかったのは、作家。学生の頃から小説を書いていて、作詞の傍ら書いた「瀬戸内少年野球団」という作品は直木賞候補となり、後に映画化もされている。


また、森昌子や山口百恵、中森明菜、ピンクレディーなどそうそうたるアイドルを輩出した伝説のオーデション番組「スター誕生」も阿久悠先生の企画である。

 
おいおい、何でもできちゃうじゃん、この人!

 

まるで、背泳ぎ、バタフライ、平泳ぎ、クロールの個人メドレーでリオ五輪金メダルに輝いた、萩野公介のようではないか。

 

また、阿久悠先生は仕事の幅広さだけでなく、作詞に絞っても、そのふり幅はものすごい。

 

だって、

「お酒はぬるめの燗がいい 肴は炙ったイカでいい」(舟唄/八代亜紀)と、

 

「ウララ ウララ ウララのこの世は私のためにある」(狙いうち/山本リンダ)と、


「あなたに逢えてよかった あなたには希望の匂いがする」(あの鐘を鳴らすのはあなた/和田アキ子)と、

 
「さらば地球よ 旅立つ船は 宇宙戦艦ヤマト」(宇宙戦艦ヤマト/ささきいさお)

 
などなど、これ、同じ人が書いているの?と疑ってしまうような、バラエティに富んだジャンルの歌詞を書き、しかもそれをガンガンヒットさせて。


まるで、つり輪・あん馬・ 跳馬・平行棒・鉄棒の6種目すべてにおいて秀でた能力を持ち、世界選手権6連覇を果たしている体操の内村航平のようではないか。

 

はぁ、ほんと、その才能にため息が出る。


<阿久悠先生の熱意>

 

「作詞家」は、阿久悠先生が当初目指していた道ではなかったものの、いくつかヒットを飛ばすうち、


「歌というものが社会を翔けめぐる速さというものを実感した。これは只事ではない。歌は好みの人のお遊び品として届けるものではなく、未知の無限の人々に対して、時代の気分を発信するものだと思ったのである

 

(「星をつくった男 阿久悠とその時代」より)


と、歌が大衆に与える影響の大きさを感じ、作詞家としての仕事に力を注ぐようになっていく。

 

「歌には時代を動かす力がある」(同前)との想いで、作詞に情熱を燃やした阿久悠先生を表す言葉がある。それは、「阿久悠が女性を強くした」という言葉。


従来の流行歌にあるジメジメとした女性像ではなく、凛々しくてカラッとした自立した女性を阿久悠先生は好んで歌詞に登場させたと言われている。

 

1970年に「an・an」1971年に「non・no」と女性誌が次々に創刊。男性の陰に隠れず生きる女性の息吹を敏感に感じ取り、阿久悠先生は詞に反映させていったのだ。


例えば、「また逢う日まで」は、男女の別れが「捨てる/捨てられる」の図式ではなく、二人がお互いに納得して別々の道を行くというスタンスで描かれている。

 

 「ふたりでドアを閉めて ふたりで名前消して その時心は何かを話すだろう」

 

この曲にはもう1つ特筆すべきことがある。当初、このメロディーにはこんな、別の歌詞が付いていたのだとか。

 

 「こころを寄せておいで あたため合っておいで その時二人は何かを見るだろう」

 

「また逢う日まで」は、1970年に書かれ、CMソングとしても使われた。しかし、この年の「日米安保更新」を経て、翌年、阿久悠先生はこんな風に考えたのだ。

 

「71年になると、70年という時代をくぐり抜けてきて、いわゆる優しさとか、触れ合いとかを求める時代になった。『ラブストーリー』という本がアメリカでものすごく売れていた。そこでぼくは、ひとつ新しい別れのパターンをつくってやろうと考えた」(同前)

 
そして、歌詞を変え、誕生したのが「また逢う日まで」。この曲は、阿久悠先生が初めて日本レコード大賞の最優秀賞を受賞する大ヒット曲となった。


阿久悠先生は、このように、時代を敏感に感じ取り、一歩先を行き、聴き手である大衆が求めている「時代に対する飢餓」のようなものを埋めるため、歌詞を書き続けたのだ。

 

「本来、歌謡曲とはいかに聞く気のない人の耳に飛び込み、一瞬で心を惹きつけ、その音をまわりの人と共有させるかでその真価を発揮するものだ」(『企みの仕事術』より)


「第1回のディスカッションで決めなければならないのは、誰に、いつ売るかだ。つまり、対象とタイミングである」(『作詞入門』より)

 

歌手ありきでなく、聴き手が求めているものありきの手法。


未知の領域へ足を踏み入れ、時代を開拓していくそのプロフェッショナルぶりは、まるで、高校1年生で単身ブラジルへ渡りプロ契約。その後、イタリア、クロアチアのチームを渡り歩き、いち早く世界サッカーに挑戦した日本人選手である三浦知良のようではないだろか。

 

もしくは、高校卒業後、単身強豪国のスロバキアに渡り、リオ五輪でカヌー競技として日本人初となるメダル獲得で自ら時代を切り開いた、羽根田卓也のようではないか。

 

阿久悠先生、恐るべし。


<阿久悠先生の努力>

 

阿久悠先生にはもちろん類まれなる才能があるのだけれど、何もせずにその地位を築けたわけではない。


会社員だった時代は、CMプランナーと構成作家を掛け持ちし、睡眠時間が3時間という暮らしを何年も続けていた。それはすべて自分のため、そして家族のため、時代をつかむため。

 

多忙を極めた生活にもかかわらず、日記を毎日つけていたそう。その日記には、時代の雰囲気、色、匂いをつかむためのさまざまな情報が記されていた。


また、ニュースや新聞を見て気になることがあればメモをとり、夜中にそれらをまとめて1ページにする「1人編集会議」もほとんど毎日行っていたのだという。

 

「こういう時代です、っていう枠なんかは見えないけど、でも時代はある。それは、その年の流行であったり、ちょっとした事件のあり方、その時代にしか登場しないであろう人物、ヒーロー、ヒロイン。そういった事柄や人間が構成して、後になって初めてわかるものなんですよ。


(中略)


だから美空ひばりや力道山、古橋広之進、マッカーサーというピースがあったりして初めて昭和24年というのはこういう顔をしているんだとわかってくる。昭和24年の中から、それらや川上哲治や三鷹事件などを外していったら時代は見えないだろうと思う」(『阿久悠のいた時代』)

 

 一分一秒を無駄にせず、常に時代を受け止めるアンテナを張り、それを仕事に反映させるスキルを磨く。熱意が生む、努力の積み重ねは、プライベートの時間もすべて練習に充て、練習の鬼と呼ばれたイチローのようではないか。

 

 阿久悠先生、マジかっこいい。


<阿久悠先生のプライド>

 

阿久悠先生は時代を映し出す歌を世に送り出してきた人物だからこそ、「現役であること」に執着心を持っていた。

 

1979年に発売されたウォークマンは、1980年代に入ると若者たちの日常に欠かせないものとなった。そのことが、人々の音楽の聴き方をがらりと変えてしまう。

 

阿久悠先生は度々、歌をヘッドホンで聞くことを「点滴」に例えていたという。その人の身体の中に注ぎ込まれて、外へは流れていかないというイメージ。

 

「人は人。自分は自分の好きな音楽を聴く。干渉しないから干渉しないでというスタイルがそこにある。確かに自分だけしか聞いていないというのは、「聴く」目的として考えれば、いい時間の使い方をしているのだろう。


ただ、そこから先、「お前も聞いてみろ」とか、「昨日これ聞いてみてすごく良かったんだけど、どうだい?」という繋がり方が、この頃失われてきているような気がするのはさびしい」(『企みの仕事術』より)

 

また、次第に、シンガーソングライターによる楽曲がヒットチャートを賑わすようになってもきた。作詞家、作曲家がタッグを組んで楽曲を制作するスタイルは、徐々に減り出したのだ。


阿久悠先生とのコンビで数々のヒット曲を世に送り出した作曲家・筒美京平先生は、当時を振り返り、こんな風に述べている。

 

「これは音楽が変わるなぁ、と思ったんです。やっぱり自分でメロディーをつくり、自分の言葉で歌うほうが真実味がある。僕らのほうはつくりものだから。ただ、それはどっちがいいのかという話ではないんです。

 

阿久さんの詞は芝居がかっていて、ドラマチックでした。シンガーソングライターの楽曲は、私的でスケールが小さいんですが、人々がそういうものを望む時代がきた、ということなんです」

 

時代の波に逆らうことはできず、それまで作詩賞など何かしらの賞に輝いていた阿久悠先生は、1989年、ついに無冠に終わった。紅白歌合戦で歌われた曲にも、1曲も阿久悠先生の作品はなかった。


それは、一つの時代の終わりのようだった。

 

この頃になると、阿久悠先生のもとへテレビ局からこんなオファーが舞い込み始める。「阿久悠先生のこれまでの作品を紹介する、懐メロ番組をやりたい」。


阿久悠先生は自身の作品が「懐メロ」と言われたことにひどく傷ついたそうだ。

 

そんな1980年代後半、阿久悠先生はこんな作品をつくった。

 

「時代おくれ」(河島英五)

 

目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことには無理をせず
人の心を見つめつづける
時代おくれの男になりたい

 
ねたまぬように あせらぬように
飾った時代に流されず
好きな誰かを思いつづける
時代おくれの男になりたい

 
河島英五と言ったら「酒と泪と男と女」があまりにも有名だが、私は「時代おくれ」の方が好き。現代の男性にはない、謙虚さとやせがまん的な姿勢と、思慮深さと。ほんとに素晴らしい。

 

懐メロと言われようが、作詞家としてのプライドを捨てず、流れの速い時代だからこそ、あえてそこには乗らないスタンスで作品を書く。


それはまるで、ソチ五輪後1年の休養期間を経て現役続行を明言し、自分のスケートをとことん突き詰めた浅田真央のようではないか。


(ちなみに、阿久悠先生も1980年に半年間休養をしている。そして、復帰後リリースした「雨の慕情」(八代亜紀)で日本レコード大賞と日本歌謡大賞の2冠に輝いた)

 

浅田真央は、復帰してから引退までの期間が一番、自分のスケートの良さを磨けたと話している。それまでは、「ジャンプの浅田真央」を自覚して、ジャンプに重点を置いて練習してきたし、それを失ったら自分のスケートには何も残らないと考えていたと。


でも、復帰後はその呪縛から解き放たれて、彼女の持ち味であるスケーティングやステップの技術、表現力に目を向けられるようになったという(それらの持ち味は、客観的に見たら誰もが超一流だと認めていたにもかかわらず、本人はあまり自覚がなかったようだ)。

 

けれども、同時に彼女は代名詞の「トリプルアクセル」も捨てなかった。最後の試合まで、どれだけ失敗しても果敢に挑み続けたその姿は、アスリート中のアスリートだったと思う。


そんな浅田真央の心意気に通じるものを、1980年以降の阿久悠先生のスタンスに感じるのである。


嗚呼、まだまだ語り足りないのだけれど、さすがに長すぎた。


みなさんに、YouTubeでの阿久悠先生祭りをおすすめして、今日はお別れ。また逢う日まで。