HONEY BOY

(監督:アルマ・ハレル/脚本・主演:シャイア・ラヴーフ/2019年)

 

 

何かの映画を見たときに予告で流れた、子役ノア・ジュプの愁いを帯びた表情と、映像美に心を奪われて「絶対、見る!」と決めていた本作。

 

売れっ子のハリウッドスターとして活躍しながらも、アルコールに溺れ、更生施設に送られてしまった22歳のオーティス。

 

更生プログラムの一環として、今までの人生を振り返ってノートに書き留めるように言われた彼は、幼い頃の記憶をたどっていく。

 

すでに人気子役として引っ張りだこだった12歳のオーティスと、オーティスの稼ぎで暮らす父親のジェームズのストーリーが、この映画のメインだ。

 

「大人になった今、僕は知った。そこに、愛があったことを」

 

これが、映画のキャッチコピー。

 

過去に酒とドラッグで問題を起こした前科者で、禁酒会に通いながら、働かずにオーティスのマネージャーを気取る父。

 

離婚して、父子ふたりだけの暮らしの中で、頼るのも甘えるのも、父ただ一人。けれども、父はハチャメチャな演技指導をしてきたり、口汚く罵ってきたり。

 

父子をケアしてくれている、自治体の職員に対しても、反抗的な態度をとる。近所とのトラブルも日常茶飯事。

 

まったく頼れもしないし、甘えさせてもくれない父に、ときに口答えをしながら、オーティスはいつも、満たされない気持ちを抱えたまま、淡々と自分の仕事をこなすのだった。

 

脚本は、ジェームズを演じるシャイア・ラヴーフが書いている。実はシャイア自身、アルコールに溺れて更生施設に入ったことがあり、その時に書いたものを元に、脚本が出来上がった。

 

これは、子役からこの世界にいる、シャイアの自伝的な映画なのである。シャイア自ら、アルコールに溺れるきっかけになったひどい父を演じていることが、この映画の大きな、そして大切な柱になっている。

 

脚本を書くことで、過去の自分の心情が赤裸々に晒される。同時に当時の父の想いに心を寄せて、それを咀嚼して、客観的に形にしなくてはならない。

 

さらに、決して理解できなかった父に自分がなり切って、過去の自分と対峙する。それは、想像を絶する辛さを伴うものだったに違いない。

 

シャイアは、インタビューでこう答えている。

 

「僕は自分の過去に立ち向かうことを余儀なくされ、書くことはセラピーの重要な一部だったんだ」

 

「辛い会話がたくさん生じたが、解決しようと努力し続けた結果、この映画のおかげで、自分の行動の動機が理解できた」

 

荒治療のようにも思えるが、シャイアにとって、書くことと演じることが、明るい未来につながる大きなきっかけになったようだ。

 

 

そして、12歳のオーティスを演じたのは、ノア・ジュプ。

 

ハニーボーイを見る前に、彼の出演作「ワンダー君は太陽(2017年)」を見た。その作品でも頭一つ抜きに出た輝きを放っていたのだが、本作でもとんでもない存在感を見せつけている。

 

父のバイクの後ろにまたがって、ぎゅっとしがみつきながら見せる、何とも言えない幸せそうな表情。父との口論の果てに、廃車置き場で車のフロントガラスをぶっ壊したり、大声で吠えたり、感情を爆発させる姿。

 

近所に住む女性に母性を覚え、甘えるように肩をもたれる切ない横顔。朝早くまだ眠っている父のためにコーヒーを淹れ、そっと枕元に置く健気な仕草。

 

どんなに情けなくても、たった一人身近にいてくれる父のことが大好きなのに、何もかも、父とは上手くいかない。そんなもどかしさを絶妙に表現していて、もはや子役とは呼べないレベルだ。

 

ノアは、インタビューでこう話している。

 

「オーティスとジェームズ、ふたりの間にはたくさんの愛があるのですが、ふたりの関係の陰の奥に押し込まれているんです。オーティスは、父親が普通の父親らしく振る舞って、愛情を示してくれることを望んでいます。でも父親のジェームズは、そんなことをするのは「弱虫」だって思っているんです」

 

ねぇ、この大人びた考察力、いったい何?自分が演じたオーティスの気持ちを理解するのはわかるけど、父の気持ちまで推しはかり、しかもその推察がとっても深い。

 

高い演技力はもちろんのこと、ノアはこの映画のアイコンとなり、完全にビジュアルを支えている。

 

彼の出ているシーンは、どこを切っても映えまくっている。オーティスだけの写真集を作ってほしいくらい。

 

ものすごく美男子というわけではないけれど、唯一無二のオーラというか、雰囲気を醸し出していて、末恐ろしい。そして、彼の次の作品が今から楽しみで仕方ない。

 

 

最後に何かがすっきり解決するわけではないし、お涙頂戴の感動シーンがあるわけでもない。父と子の愛憎にまみれた日常を、淡々と観客が観察する。これはそんな映画だ。

 

設定が特殊なだけで、そこには、葛藤であったり、愛情の渇望であったり、どんな親子の間にも大なり小なりあるだろう問題が、溢れている。

 

だからきっと、誰しもがシャイアのように、この映画に癒されるのかもしれない。