「比喩表現の神」ASKAの歌を聴け

 

「え?ASKAって、あのASKA?」と、ぎょっとした人も多いと思う。そう、諸事情によりさんざん世間を賑わせた、あのASKAのことで間違いない。


今でこそ、森山直太朗と藤井風を超絶贔屓にしている私だが、小学生の時はチャゲアスの大ファンだった。


それ以降、熱烈なファンとは言えないものの、時々思い出したように楽曲を聴いては、「やっぱりいいねぇ」なんてしみじみ感じ入ったりしている。

 

幼い頃はよくわからなかった歌詞も、大人になるといよいよ心に深く染みたりするもので、彼の書いた楽曲が酒の肴になるような日もしばしば。


今回は、彼が何をキメていたとか、誰とキメていたみたいな話はみーんな忘れて、彼の楽曲の世界だけを見ていこう。

 
彼の書いた歌詞について、次のような流れで解説していきたい。

 

・比喩表現の最上級「神喩」とは

・若者よ、表現に個性を抱け

・「神喩」も休み休み言え


比喩表現の最上級「神喩」とは

 

国語の授業で習った比喩表現の種類を覚えているだろうか?ここで、簡単におさらい。

 

比喩表現は大きくこの2つに分かれる。

 

▶直喩(ちょくゆ)

…「〇〇のようだ」とか「〇〇みたいな」など直接何かに例える手法。「明喩」とも言う。


例)花のように美しい人だ、仏みたいに穏やかな人だ など

 
▶暗喩(あんゆ)

…たとえる名詞とたとえられる名詞を助詞の「の」で接続するだけの比喩表現。詩的なニュアンスを出す時などに用いる。「隠喩」とも言う。


例)あいつは悪魔だ、その人は恐ろしい鬼の形相をしていた など

 

私は生まれてこのかた、多くのJ-POPと言われる楽曲を聴いてきたが、私はその中でもASKAが日本における「比喩表現の神」だと思っている。「God of HIYU」だ。

 

彼の書く歌詞は、比喩表現の宝石箱。


しかもそれは、もはや、万人が思考しうる表現の域をはるかに超え、直喩だとか、暗喩だとかで説明できるようなシロモノではないレベルまで到達しているのである。

 

そんな神的なASKAの比喩表現を、私は「神喩(かみゆ)」と名付けた。完全にオリジナルの分類。

 

ちょっとここで、神喩がひしめき合う、お気入りの1曲を紹介しよう。

 


【草原にソファを置いて】

 

心の中の階段を上がってみた
ドアを開けたら草原だった

 

春の花畑には菜の花があるように
僕の中には僕があった

 

いつからこんな気持ちになれたんだろう

 

「君も負けるな頑張れ」なんて決まりの言葉は
ときに嵐でひとりぼっちにさせた

 

空色の草原に 僕はソファを置いて
どうでもいいことやあやふやなことに吹かれたい

 

でこぼこのくせに丸い顔する地球の
明日にさしたシャベルを抜いてあげたい

 

いつまでも僕はロマンチック馬鹿でいよう

結局一番遠かったのは自分の心さ


途方に暮れて立ち止まっても認めない

 

空色の草原に 僕はソファを置いて

いろんな道順のパズルを組み替えて遊びたい

 

※以下、サビ繰り返しのため省略

 

 

 
どうだろう?

 

いきなり、歌い出しから

「心の中の階段を上がってみた ドアを開けたら草原だった」である。
ほんと、意味不明。

 

「春の花畑には菜の花があるように」で、あ、これは直喩だね?と思いきや「僕の中には僕があった」。


ん?どういうこと?

 

「空色の草原に 僕はソファを置いて」
草原が空色だなんて、いったい誰が思いつくだろう。

 

そんでもって、
「でこぼこのくせに丸い顔する地球の 明日にさしたシャベルを抜いてあげたい」
ときたもんだ。

 

は?何それ?と言いたくなる。

 

でも、なんかわかんないけど、「超すげー!!!!!」って思うのだ。


この人、私たちには到底たどり着けない「表現の天国」に暮らしている、天才なんだなって。


God of HIYUなんだなって。

※この曲の歌唱映像はこちら↓

 

いろいろあったけどさ、ASKAってやっぱりすごい人なんだということが、おわかりいただけただろうか?


若者よ、表現に個性を抱け

 

長きにわたり、ASKAの神喩に触れて生きてきた私にとって、表現に何の工夫もないアーティストの歌詞は、聴いていて鳥肌が立つくらい恥ずかしさを覚える対象だ。

 

今の日本は「みんな違って、みんないい」みたいな風潮が強いのにもかかわらず、何の個性もない表現がもてはやされている。それにはほんと、びっくりする。


(ここでの発言は、決して悪口ではなく、事実を述べているだけ。どうぞご理解を。特にファンの方、気を悪くしないで)

 

 例えば以前、某音楽番組で、某作詞家が「歌詞の全てがLINEのスタンプになる」と語っていた、某アーティストの曲のサビ。
(重ねて言うが、悪口ではない)

 

【Have a nice day】

I say, がんばれ私! がんばれ今日も
「行ってきます」「いってらっしゃい」

 

Happy Lucky Sunny Day

行け!行け!私! その調子!いい感じ

 

がんばれ私! がんばれ今日も
「行ってきます」「いってらっしゃい」

 

Happy Lucky Sunny Day
偉いぞ私 負けるな 焦るな くじけるな

 

そうやって今日だって 一生懸命生きてるから
I say, Have a nice day! 

 

※以下略

 

 

某作詞家は「彼女は〝あえて″誰にでも通じる易しい言葉を使って歌詞を書いている」と言っていた。


なんとなく、誉めているようにも聞こえるが、実は公共の電波を使って暗に「何の工夫もない言葉を並べただけの歌詞を書いている」とディスっているのでは?と思ってしまった。それは、私の性格が悪いからだろうか。

 

私は、このような歌詞を「等身大だ」とか言って崇拝している若者たち、そしてなんならアーティスト本人にもこう言いたい。


「表現の世界は無限に広いのに、そんなちまちま生きているなんてもったいない! 表現の世界の扉を開け! ASKAの歌を聴け!」と。

 
そう、たとえば、こんな曲。

 
【帰宅】

 

酔い覚めのような気分で 夜明けに仕事が終わる
カラスを脅かしながら 家に帰る

 

もうすぐこの街のもとに 光が届く
葉書を差し込むように

 

消し忘れのヘッドライトの車が来る
夜と朝をくぐって

 


夜から朝に移り変わる時間の情景を、こんなに美しく表現する人を、私は他に知らない。

 

【river】

 

君の言う寂しさって 生まれた時のものさ
人の中を 愛の中を 流れている

 

君の胸はriver 行方知れないriver
僕は用意もなく 恋のままでいこう

 

君の胸はriver 行方知れないriver
僕の荷物はもう ここに沈めてみよう

 


いやぁ、いったいどんな恋愛をしたら、こんな歌詞が書けるのだろうか。

 

【ONE】

 

恋が深爪をした 先がひどく痛んだ
もうこれ以上結べそうにない 一緒に歩けない

 


恋が、深爪をする。いったい、どういうことなのだろう。素晴らしい。

 

【On Your Mark】

 

そして僕らは 心の小さな空き地で
互いに振り落とした 言葉の夕立

 

答えを出さない それが答えのような
針の消えた時計の 文字を読むような

 

 

「心の空き地」! 「言葉の夕立」! 「針の消えた時計の文字を読む」! 
パワーワードが盛り盛り。

 

私が国語の先生だったら、古典の授業でない限り、子どもたちにはとりあえずASKAの曲を聴かせておくのではないだろうか。

 

あながちそれはおかしな発想ではなく、「ASKAのすべて」というムック本に、とある国文学者が「ASKAの名曲をテクスト論で読む」という寄稿をしており、学問の世界でも彼の歌詞は注目されるべき存在のようだ。

 

その学者によると、彼の歌詞は「小さな謎と哲学に満ちている」とのこと。


「神喩」も休み休み言え

 

例の不祥事の後、ASKAは「700番」という本を出版した。学生時代のこと、チャゲアスのデビューの頃のことなど、彼の半生が書かれている。


さらには、「俺は誰かに盗聴されている」とか、二度目の逮捕の際、尿検査のコップにお茶を入れたとか入れてないとか、そんなようなことまで綴られたエッセイだ。

 

もちろん私もこれを購入し、読んだわけなのだが、さすが神喩の達人・ASKAさん。エッセイにすら、神喩が満載。

 

チャゲアスの全盛期、少しの間、彼はロンドンに移住していた。その時のことを淡々と書いた最後の締めの文章が、こう。

 

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重みのある方向へ、重心を変えてゆく。そして最後には、それが行為となる。歴史とは白熱しながら尖ったほうへ向いていくものだ。意味深な表情をしながら。


その顔は海のような広がりをみせ、沈黙を保つが、やがて堪えきれず、空に身を放り投げるように突出する。包帯はいつも夕焼けのように滲んでいる。


滲ませるには白である必要がある。幾度巻けば、夕焼けを覆えるのだろうか。それは包帯にしかわからない。周りは黙って見ているほかないのだ。

 

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「は???」「ちょっと待って、これ、何のくだりだっけ?」と思わずページを捲り直すくらいのぶっこみ方。脈略がないにもほどがある。

 

また、薬物中毒の人たちが入所する「ダルク」という施設で、クリスマス会で歌う歌を作詞作曲した際のことを書いた文章の締めは、こう。

 

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私は、歌うことに存在の証明がある。新幹線のように艶やかな風を浴び、田んぼや街を抜け、歌声のように走り、仲間のような曲を乗せ、迷いのない顔をして、煌びやかな喜びを目的地に運ぶのだ。

 

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いきなり新幹線が登場!またも、「何のくだりだったっけ?」と前から読み直す。

 

この本は、詩集ではない。


仮にも、自分は精神異常者ではない、誰かにパソコンがハッキングされていることや、盗聴も事実。そして釈放後は断じて薬物に手を出したりしていませんよ、という、身の潔白を訴えることを目的とした著書の中で、神喩を使うのはいかがなものか。

 

自分の比喩表現が神レベルであることに、頓着がなさすぎるゆえのことなのだろうが、あまりに突飛。これじゃあせっかくの神喩が逆効果。


神喩使いもTPOをわきまえるべきで、その点において、この著書「700番」は彼の名誉回復の一助にはなっていないように思う。

 

もしこの本の続編が出るのなら、私はASKAに言いたい。「神喩も、休み休み言え」と。

 


さて、最後に、数ある曲の中でも、時々酒を飲みつつ、泣きながら聴くことがあるこの曲をお届けして、今回はこのへんでお別れしよう。

 

「月が近づけば少しはましだろう」