チョコレートドーナツ

(監督:トラヴィス・ファイン/主演:アラン・カミング/2012年)

人と人とが幸せな家族、親子、夫婦であるために、性別や血のつながりなんてものは、それほど重要なことではないのかもしれない。

 

「みんなと同じこと」が、いつの間にか「正しいこと」に履き違えられ、それが世の中をゆがめてしまっていることに、私たちはあまり気づいていない。

 

この映画を見て、率直にそう感じた。

 

シンガーを夢見ながらも、日銭を稼ぐためにドラッグクイーンとして舞台に立ち続けるルディ。ゲイであることを隠しながら弁護士をしていたポール。ふたりは、出会ってすぐに惹かれ合う。

 

ルディの隣に住む母子家庭の親子は、母親が薬物常習者で、息子がダウン症。


ある日、その母親が逮捕されてしまうのだが、息子のマルコを気の毒に思ったルディは、彼をポールとふたりで世話することに決めるのだ。

 

マルコの純粋さに導かれて、1年もの間、本当の親子のように暮らす3人。


しかし、時は1979年。同性愛者への理解はまだまだ浅く、ゲイのカップルであるふたりに対して世間の風当たりは冷たい。


大いなる偏見により、ふたりにはマルコを養育する資格がないと決めつけられ、彼らは引き離されてしまう。

 

幾度の裁判を繰り返すも、偏見に満ちた人々の圧力や、人の心より法律を優先する人々の残酷な判断によって、マルコは薬物常習者の母の元へと戻される。


その結果、マルコとふたりにとって、最も悲しい結末が訪れてしまうのだ…。

 

生物学的に見たら、ルディには、いわゆる「母性」というものはないのかもしれない。しかし、ルディは、何よりもマルコを優先し、実の母親以上の愛情を注ぎ、日々を過ごした。


また、ポールも、血のつながりがなく、ましてや障害がある子どもなのにもかかわらず、温かな眼差しで見つめ、ルディとともにマルコを一心に育てた。

 

どう見ても、ルディとポールと暮らすことがマルコにとっての一番の幸せなのに。偏見という名の曇ったフィルターを付けた人たちには、その幸せが映らないのだった。

 

とは言え、この映画で取り上げられているのが、性的マイノリティに向けた偏見であるだけで、偏見とは、あらゆる人の心に根付いているものだと、私は思う。それはもちろん、私の心の中にも。

 

「あの人はこうだから、言っても仕方ない」「あの人は考え方が古いから、ダメだ」などと最初から決めつけて、聞く耳を持たないとか、最初からコミュニケーションをあきらめてしまうとか。

 

それも立派な偏見だ。

 

価値観の違いや、性格の不一致、相性の良し悪しは仕方ないとしても、時に人は、この「決めつけ」という偏見によって、いらぬ争いをしたり、目的を見失ったりしているような気がする。

 

この映画においては、「マルコの幸せ」という目的が見失われ、「ゲイ=異常者」という偏見のもとに、保護者がゲイであることは教育上良くないという結論が導かれてしまった。

 

ゲイのカップルが、障害者の子どもを引き取るという設定がレアなだけで、テーマ自体はとてもシンプル。

 

誰かに腹が立ったとき、憎しみが生まれたとき、悪い感情がわいてきたとき、心の中に大小さまざまな偏見が顔を出していないかどうか、一度冷静に自分に問うてみることが必要かもしれない。


一番は、偏見のない、まっさらな心を持つことなのだけれど、人間、なかなかどうして、神のような心を持つことはは難しそうだから。