おらおらでひとりいぐも

(監督・脚本:沖田修一/主演:田中裕子/2020年)

 

おらおらでひとりいぐも。

東北の言葉で「おら」は「私」のこと。ざっくり訳すと、「私は私で一人でいくよ」というところだろうか。

 

主人公・桃子さんの「寂しさ」の化身として、桃子さんと同じ格好をした男性3人(濱田岳、青木崇高、宮藤官九郎)が出てくるし、いきなりマンモスや神様が現れるし、病院の先生が急に原始人化するし。

 

その他にも、特殊な演出がたくさんあって完全にファンタジーの世界なのだけれど、桃子さんを演じる田中裕子の類まれなる演技力、孤独と戦いながら生きる老人の暮らしぶりの描き方、そしてとことん生活感のある自宅のセットが、ものすごいリアリティを感じさせ、ファンタジーなのにファンタジーじゃない、絶妙な世界観を醸し出していた。

 

数年前に夫に先立たれ、車がないと生活が不便な田舎の自宅でひとりで暮らす桃子さん。

息子は大学を中退した後、どこかに就職したようだが、ちっとも音沙汰がなく、もはや「いないもの」と考えている。小学生の子どもがいる娘は、お金を貸してほしいなど、何か頼りたいときにしか、顔を出さない。

 

毎日毎日、朝起きて、朝食を食べ、近所の病院へ行き、昼食を食べて、図書館に行き、夕食を食べて、寝る。その繰り返し。

 

病院では狭い待合室で何時間も待つのにもかかわらず、いつも「お変わりありませんか?」「はい」「じゃあ、またお薬出しておきますね」だけのやりとり。

 

燃費の良い軽自動車のリースを薦めてくる自動車メーカーの営業マンは、契約までは「息子だと思って」と調子の良いことを言って度々自宅に訪れるが、契約してしまえば、それっきり。

 

他人との心の通ったコミュニケーションに飢え、思い出すのは昔のことばかりだ。そんな寂しい桃子さんを、3人の「寂しさ」たちが、冗談を言ったり、音楽を奏でたり、踊ったりして励ますのである。

 

とにかく、もう、この映画は田中裕子のすごさが際立っている。大物女優のオーラはまったくなく、完全に、普通のおばあちゃん。

 

体のあちこちにガタがきて、おしゃれにも興味がなくて、ただただ過ぎていく時間に身を任せて生きている、無気力で孤独な老女になりきっていた。

 

劇中、とうの昔に亡くなったおばあちゃんが桃子さんの前に現れるシーンがある。そのとき、桃子さんがおばあちゃんに「これで良かったのかなぁ」と泣きながら問うのだけれど、それがめちゃくちゃ泣けた。

 

それなりに恋をして、結婚し、必死で子どもを育て、子どもを独立させて。第2の人生を歩もうとした矢先、夫が亡くなり、子どもたちとも疎遠になり、老いを感じながらひとりで生きる毎日。

 

これまでの人生を振り返り、自分は何を残せたのか?この人生を選んで正解だったのか?と、どうしても、自分自身に問わざるを得ない。

ある年齢に達すると、誰しもがそういう境地に陥るのかもしれないが、桃子さんの置かれた境遇があまりにも寂しくて、あまりにも他人事に思えなくて、胸が痛んだ。

 

「夫が亡くなって、私は本当の意味で自由になれた」そう思うことで、夫の死を肯定しようとした桃子さん。「おらおらでひとりいぐも」という言葉は、桃子さんが自分を奮い立たせるための、おまじないのようなものなのかもしれない。

 

「あんだたち、誰なの?」と聞く桃子さんに、「おらは、おめぇだ(私は、あなただ)」と答える「寂しさ」3人。彼らは「死ぬまで一緒だから、安心しな」とも言うのだけれど、それはすなわち、死ぬまでこの孤独とはおさらばできないという意味でもあって。

 

一見、それは絶望的でもあるのだが、「寂しさ」とどう上手に付き合っていくか、どう折り合いをつけて暮らしていくか、これまで強く生きてきた者に、そんな人生最後の課題を突き付けているようにも感じた。

 

後半のシーンで、なぜか原始人化してしまった病院の先生が言う「太古の昔から先祖たちが必死に生き抜いてきて、それをあなたはちゃんとつないだのだから、それだけで十分」というようなセリフにも救われた。

 

これまで何を残してきたかとか、選んだ人生が正解だったかということは、考えなくていい。ただここまで生きてきたこと、それだけで十分だと。

 

人は誰しも年老いるし、確実に、死に向かって生きている。どんな晩年になったとしても、もはや、何かを悔いても何も変わらない。だったら、「おらおらでひとりいぐも」と言いながら、少しでも前を向いて生き抜くのがいいに決まっている。

 

そんなことを、桃子さんから教えてもらった気がする。桃子さんの今後に幸あれと、願わずにはいられなかった。