BOOK 14

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか

(想田和弘 著/講談社現代新書/2011年)

 

先日、こんな記事を目にした。

 

『ザ・ノンフィクション』の“過剰演出”を出演者が告発! 悲惨な「やらせ」一部始終

 

フジテレビで毎週日曜に放送している番組『ザ・ノンフィクション』で、制作側が出演者に対して過剰な演出を強要していたというもの。

 

同番組に何度も登場したオカマとオナベのでこぼこカップル・マキさんとジョンさんが独白している。

 

ディレクターに台本を渡され、ケンカやスーパーマーケットでの店員に対するクレームをやりたくもないのにやらせれたとか、そのケンカの最中に、「ガチャーん」という効果音を入れられ、まるでワインボトルを割ったかのように演出されたとか。

 

私はドキュメンタリー番組が好きなので、『ザ・ノンフィクション』はよく見ていたし、他の番組に比べて主人公を無理にかっこよく映さないところがいいなと思っていたので、この記事には少なからずショックを受けた。

 

と同時に、近年のマスコミの度重なる悪事を思い返すにつけ、「まぁ、やるだろうな」「ありえるだろうな」と、納得感も覚えた。

 

東日本大震災の際、避難所にマスコミがやってきて「津波で親を亡くした子にインタビューがしたい」と言ってきたとか、街頭インタビューを受けた人が「編集で自身の意見と真逆のコメントをしたかのように放送された」と憤っている声も聞いたことがある。

 

真実を伝えるもの、というイメージのある「報道番組」ですら、制作側が思い描いた通りの番組にするために、都合の良い映像やコメント、取材対象を用い、意図的な編集を行っている。それを考えると、ドキュメンタリー番組がそうでないはずがないのだ。

 

そうやって、メディアが意図する方向に視聴者の心は引っ張られて、作り物の「民意」が築かれていく。それはとてもとても、恐ろしいことだ。

 

出演者が自ら命を落としてしまった、某恋愛リアリティ番組もそう。制作側が作った虚構の世界で、視聴率が取れるような演出が繰り広げられているにもかかわらず、大半の視聴者は、まるでそれがリアルであるかのように認識してしまう。

 

これがドラマなら、それが作られたものだということが明白だから、ヒール役を演じた役者自身にまで悪いイメージは抱かない。

 

でも、「見ず知らずの男女6人が共同生活する様子をただただ記録したものです。用意したのは、素敵なお家と素敵な車だけです。台本は一切ございません」と言われたら、話は変わってくる。

 

一部を見ているだけにも関わらず、作られたものを見ているだけにも関わらず、それがその人の本質だと思い込んでしまう人を数多く生み出してしまうのが、メディアの怖さだ。

 

この本の著者、想田和弘さんは、ニューヨーク在住のドキュメンタリー映画作家。先日「精神0」という作品を見て、想田さんが撮るものが、私が今まで見てきたいわゆる「ドキュメンタリー」とはまったく違っていて、興味を惹かれ、この本を手に取った。

 

想田さんのドキュメンタリー映画には、BGMも、ナレーションも、テロップもない。だから観客は、被写体が話す言葉、仕草や表情などから、その場面を理解して、自分なりに解釈するしかない。

 

撮影前に取材対象者と一切打ち合わせをしない。作品のテーマを事前に決めず、仕上がりのイメージを持つこともしない。なぜなら、それをすることによって、意図が生まれてしまうから。

 

撮影中、被写体に質問をしてコメントを求めることもない。特定の質問を投げかけること自体に、制作側の意志が含まれてしまうからだ。

 

そうやって、極力、制作側の主体性をそぎ落とし、無駄かもしれないと思いながら長くカメラを回し、よりナチュラルな映像を撮ることに心血を注いでいるのだという。

 

どんな作品になるのか、ゴールが見えないまま、ただ自身がおもしろそうだと思った被写体に密着をする。作品を生み出す「作家」という職業では、それはとてもリスクが大きなやり方に思えるが、想田さんはそれこそがドキュメンタリー作家の真髄だと語っている。

 

台本がないからこそ、時として予定調和では決して起こることのない展開に事が進むことがあり、それがおもしろいのだと。

 

ただ、これほどまでにストイックな手法でリアルを追及する想田さんであっても、ドキュメンタリーで「客観的真実」を映し出すことは不可能だと述べている。

 

考えてもみてほしい。カメラを回されているとわかっている状況で、完全に自然体でいられる人なんて絶対にいない。カメラが回っている時だけ「見せたい自分」を作ることだってできるのだ。

 

24時間365日、隠しカメラで監視していない限り、その人の本質なんて、わかりっこない。それにもし、24時間365日、隠しカメラで撮ったとしても、それはその人の人生のたった1年を切り取ったものに過ぎない。

 

「客観的真実」など、どうしたって映し出すことはできないのである。

 

『いかに「客観・中立・公正」を標榜していたとしても、あらゆるドキュメンタリーは本質的に体験記なのである。

作り手は客観性などを装うべきではないし、観る側も客観的真実など最初から期待せずに、作り手の個人的体験を作品にしたものであると、了解した上で観る必要がある。それは、メディアリテラシーの基本でもある。』

 

想田さんは、こんなふうに書いている。

 

本来、制作側はそういう姿勢で番組を作り、発信すべきだし、観る側もその心づもりでいるべきなのだ。しかし、往々にして、メディアリテラシーは崩壊していると言えるだろう。

 

冒頭で紹介した『ザ・ノンフィクション』の過剰演出は、このメディアリテラシーが崩壊している社会においては、「よくあること」の一つでしかない。私たち視聴者は、それに早く気が付かなければいけないと思う。

 

メディアを通して見聞きするものは全て、良くも悪くも加工された、非真実である。さらに言えば、誰かの発言や行動だって、その人の本意なのかはその人にしかわからない。結局、人は他人のことをすべて理解することなど、不可能なのだ。

 

あらゆる情報に触れるとき、それは誰かが意図した情報であるということを、常に心の片隅で、覚えていよう。

 

ドキュメンタリーは、体験記である。

 

そんなふうにはっきりと言い切る想田さんの作品は、観る側の感性を総動員して食い入るように見たくなる魅力があるし、どんな感想を抱いたって自由。

 

 

メッセージを自分で見つける(無理して見つけなくたっていい)、そういう作品を見続けることで、誰にも影響を受けない「自分だけの意見」を持てたり、「自分なりの感性」を磨けたりするような気がする。

 

行間を読むとか、空気を読むとか、場を把握するとか、他人の想いを推しはかるとか。現代を生きる人たちが失いつつある第六感のようなもの。想田さんの作品には、それを思い出させる不思議な力があるように思う。