mid90s ミッドナインティーズ

(監督・脚本:ジョナ・ヒル/主演:サニー・スリッチ/2018年)

 

行き止まりの世界に生まれて

(監督:ビン・リュー/出演:キアー、ザック、ビン/2018年)

 

2本の映画をまとめてレビューする、初めての試み。

 

かたや、ハリウッドで活躍する俳優ジョナ・ヒルが満を持して撮った初監督作品。かたや、アメリカの貧しい街で生まれた無名の青年が撮ったドキュメンタリー。

 

まったく異なる環境で制作されたこの2つの作品に共通するものは、「スケートボード」だ。

 

「mid90s ミッドナインティーズ」は、スケートボードを、若者が憧れるやんちゃでかっこいい「文化」としてフィーチャーし、思春期特有の悩みや成長をメインに描いている。

 

「行き止まりの世界に生まれて」は、スケートボードを、若者が貧困や虐待などから逃避するための「拠り所」として浮かび上がらせ、壮絶な現実とそこでもがく人の人生に迫っている。

 

 

どちらの作品も別の映画を見に行った時に、それぞれ予告編を目にして気になっていた。たまたま日本での公開日が同日だったこともあり、せっかくだからとはしご鑑賞したのだった。

 

どうやら私と同じようなことをしている人は結構いるみたいで、公式もそれに気が付き、それぞれの作品に応援コメントを送り合うなどして、相乗効果を狙っているようだ。

 

日本では、スケートボードの文化はアメリカに比べてポピュラーではないから、両方を見ることによって理解が深まるというメリットはすごくあると思う。

 

私は、特に何も考えず、上映時間の兼ね合いで、先に「mid90s ミッドナインティーズ」を見て、その後に「行き止まりの世界に生まれて」を見たのだけれど、どちらを先に見るかで、もしかしたら、それぞれの作品の腑に落ち方が異なるかもしれないと感じた。

 

 

「mid90s ミッドナインティーズ」⇒「行き止まりの世界に生まれて」の場合は、「スケートボード」を滑ることがもたらす爽快感や開放感が、一種の麻薬的な効果を果たして若者を癒していることがわかり、なぜ悩みを抱えた若者がスケートボードに傾倒していくのかが理解できる。

 

「行き止まりの世界に生まれて」⇒「mid90s ミッドナインティーズ」の場合は、「mid90s ミッドナインティーズ」の中でセリフだけで語られる貧困や親からの暴力についてを、「行き止まりの世界に生まれて」の記憶によって、よりリアルに理解できる。

 

 

各作品の持つ特性からか、それぞれの客層も若干異なっていたように思う。

 

「mid90s ミッドナインティーズ」は、劇中の90年代スケーターのファッションも注目されているからか、現役スケーターっぽい若者の割合が多かった。

(キャップやTシャツなどのオリジナルグッズが数多く展開されていて、渋谷のパルコで期間限定のショップまで登場しているほど)

 

「行き止まりの世界に生まれて」は、リアルなアメリカの貧困問題を映し出したドキュメンタリー映画としての性格が強いからか、中高齢の客もちらほら。

 

同じ「スケートボード」を扱った作品だけれど、それぞれでまったく異なる世界観が展開されていて、その差を感じられたのもおもしろい体験だった。

 

 

両者をもう少しだけ、掘り下げてみよう。

 

「mid90s ミッドナインティーズ」は、とにかく、主演のサニー・スリッチの愛らしいビジュアルゆえのアイコンとしての存在感が際立っており、キャスティングの段階で成功している作品と言える。

 

水鉄砲で遊ぶ同世代の子たちがダサく見える13歳の華奢で小さな男の子が、18歳の兄の洋服や聞いている音楽に興味を持ち、次第にボードショップの前にたむろするやんちゃなお兄さんたちに惹かれる。

 

そして、勇気を出してその輪に飛び込み、スケートボードだけでなく、タバコ、酒、女の子たちとのパーティ、さらにはセックスまで覚え、いわゆる不良に変化していく過程が描かれている。

 

本当に小柄で、兄やスケートボード仲間と比べると、大人と子どもくらいの差がある男の子が、仲間に溶け込もうと精一杯背伸びをして、悪いことに手を染めていく様子を、ハラハラと母親になったような気持ちで見つめ続けた。

 

彼がそうする背景には家族に対する小さな不満があるのだけれど、そんな不満など些細なことだということを、スケートボード仲間とつるむにつれて、彼らの生い立ちやリアルな生活から知ることになるのだ。

 

やんちゃなスケーターたちに憧れていたけれど、なぜ彼らがそんな世界にいるのか、そのリアルな理由がわかったとき、彼は本当の意味で成長する。

 

彼はこれからどんな生き方を選ぶのだろう、そんな思いを抱いて、見終わった。

 

 

 

 

「行き止まりの世界に生まれて」は、「アメリカで最も惨めな町」の3位に選ばれたこともあるほど貧しい街、イリノイ州ロックフォードに暮らす3人の若者の12年もの年月を撮り続けた作品。

 

3人のうち、1人が監督のビン・リュー本人である。スケートボードを通して知り合い、仲良くなった彼らの共通点は、親の離婚と再婚、実の親や継父からの暴力と貧困だった。

 

最初は、スケートボードの技や自分たちの日常を撮っていただけのものだったが、仲間の1人の生い立ちを深く聞いたことで、監督のビン・リューが自分たちの共通点に気が付き、この実情を世の中に伝えたいという思いで、ドキュメンタリー作品に仕上げたのだという。

 

黒人のキアーは、何でもいいから働かなくてはと皿洗いの仕事を始めるが、コツコツと貯めたお金を兄に盗まれたり、母に新しい男ができたり、やがて別の街で暮らすことを決めて家を出たり…。

 

白人のザックは、恋人との間に子どもが生まれ、家族を養おうと頑張るが、ケンカが絶えず、彼女は子どもを連れて家を出てしまう。そのうち、ザックが彼女に暴力を振るっていたことがあきらかになる。やがて、彼は酒に溺れ、自暴自棄になっていって…。

 

キアーもザックも、高校を出ていないし、良い仕事にも就けておらず、これから就ける見込みもない。それは、特別なことではなく、この街の若者のスタンダードなのだ。

 

自分たちの親も、貧しさと世間への不満から自分を見失い、彼らに暴力を振るってきた。だから、ここから抜け出して新しい道を歩まなければ、負の連鎖は断ち切れないのである。

 

その現実を目の当たりにしたとき、タイトルの「行き止まりの世界に生まれて」という言葉が、大きな重みを持って、胸を締め付けてきた。

 

 

 

どちらの作品も、彼らの未来に幸多きことを祈らざるを得ない、そんな後味を、私の心に残した。

 

でもそれは、決して悪い後味ではなく、希望の光を感じるものでもあって。きっと、作品をより多くの人が目にすることによって、その光は強くなっていくだろうと思う。

 

両作品のダブル鑑賞、おすすめです。