※9月10日発行 行徳新聞・浦安新聞・葛西新聞掲載用に執筆したものを書き起こししています。
新型コロナウイルス感染の症状の一つとして話題となった「嗅覚異常」。視覚や聴覚などの「五感」の中で、私たちが嗅覚を意識することは意外と少ないもの。実際、嗅覚に異常をきたしてにおいがわからない状態になっても、気が付かない人も多いのだとか。しかしにおいを感じなくなると、生活にさまざまな支障が出てしまう。身近でありながらよく知らない「嗅覚」について、嗅覚の診断キットなどを開発・販売している第一薬品産業株式会社(市川市塩浜)の取締役・深澤雄二郎さんと、同社・におい課の石川豊章さんに話を聞いた。
「においを感じなくたって特に問題はないのでは?とか、たいして生活に影響はないですよね?と言われることがよくあります。でも、嗅覚に障害が起こると多くの面で不便や危険があるんですよ」と深澤さん。嗅覚障害になった人が困ることのベスト5は、「食べ物の腐敗に気が付かない、ガス漏れがわからない、食事がおいしくない、調理の味付けがうまくいかない、煙を感知できない」なのだとか。腐った食べ物を口にして食中毒を起こしたり、ガス漏れや火災に気が付かずに逃げ遅れたり、料理に塩を入れ過ぎてしまったり。これらはひいては命にかかわることだ。もともとガスは無臭なのだが、ガス漏れを人がにおいで感知できるように香料を使って付臭しているのをご存知だろうか。
また、おいしさを感じることができなければ、1日3食の食事は腹を満たすだけのつまらないものになってしまう。石川さんは「においはQOL(Quality Of Life=生活の質)に大きく影響するものなんです」と話す。動物はにおいによって敵と味方を見極めたり、フェロモンを嗅いで繁殖に役立てたり、餌を見つけたりと、種の保存のために嗅覚を用いる。一方、人間は生活を楽しむための要素として嗅覚を使っている。嗅覚によって私たちの日々の暮らしは彩られ、多くの喜びや癒しを得ていると言っても過言ではない。
例えば、オレンジやグレープなどいくつかのフレーバーがある有名な某炭酸飲料は、どれを選んでも基本的に「味」は同じなのだとか。「香料で香りを付けているから、オレンジやグレープの風味がするだけなんです。鼻をつまんで飲むとまったく味の違いを感じられないと思います(深澤さん)」。石川さんは「ビールも同じように鼻をつまんで飲んだら、ただの苦い水と感じます。多くの人が味だと思っているものの大半は、舌で感じる『味』に加えて嗅覚で感じる『風味』なんです」と話す。これを踏まえると、においを感じられることがどれだけ食べることの楽しみを生み出しているのか、よくわかるだろう。
鼻で感じ取った化学物質を鼻の奥にある「嗅細胞」が読み取って、電気信号に変換し、脳に伝達する。脳はそれを受け取って「におい」として認識する。これがにおいを感じる仕組みだ。嗅覚は五感の中でも特殊で、記憶を司る「海馬」や感情を処理する機能を持つ「扁桃体」が存在する、脳の「大脳辺縁系」に直接つながっている。においを嗅いで昔を思い出したり、アロマテラピーによってリラックス効果が得られたりするのは、この大脳辺縁系に作用するからだ。
嗅覚障害は、鼻で化学物質を感じ取る段階、電気信号に変換する段階、脳でそれを受け取る段階のいずれかの異常によって起こる。嗅覚障害の種類は、大きく分けて次の3つがあるという。一つは、「気道性(きどうせい)嗅覚障害」。副鼻腔炎やポリープ、アレルギー性鼻炎(花粉症など)などによって、鼻の空気の通り道に異常が起こる病気だ。嗅覚障害の50%は慢性副鼻腔炎が占めているのだとか。副鼻腔炎は手術とステロイド投与で治療することができる。
もう一つは、「嗅神経性(きゅうしんけいせい)嗅覚障害」。これは、鼻を通って外から入った化学物質を電気信号に変換する「神経」に異常が起きた場合だ。風邪やインフルエンザ、コロナウイルスなどの感冒に罹患した後に発生することが多い。また、頭部外傷が要因のこともある。いずれも、神経がダメージを受けることが要因。これらの嗅覚障害は治療が難しいが、漢方の服薬やトレーニングやリハビリによって回復するケースも多く、動物実験でも意識的に「においを嗅ぐ」行為によって、神経の再生が促されたという結果が報告されている。とは言え、回復には年単位の時間を要するので地道な治療が必要だ。
三つ目は、「中枢性(ちゅうすうせい)嗅覚障害」。これは、直接脳にダメージを受ける頭部外傷、脳腫瘍、アルツハイマー病、パーキンソン病、脳が委縮して起こる認知症などが主な要因だ。手術によって腫瘍を取り除いたり、脳のダメージの進行を遅らせたりする治療が行われることが多い。最近のトピックスのひとつに、認知症の早期診断に嗅覚検査が応用されていることが挙げられる。認知症の初期では自覚的な嗅覚障害を訴えないことが多いが、においの検査をすると嗅覚障害が判明し、それが認知症を疑う契機になる。
このように、ひとくちに「嗅覚障害」と言っても、いくつかの種類があってさまざまな病気が隠れている可能性もある。「最近ちょっとにおいがわかりづらくなってきた…」という人は、ぜひ一度かかりつけの耳鼻科医に相談することをおすすめしたい。
嗅覚障害を予防するにはどうしたらいいか、深澤さんにたずねた。「第一に、風邪やインフルエンザ、コロナウイルスなどに感染しないように気を付けること。基本的なことですが、うがい、手洗いをしっかりして、食事などに気を付けて免疫力を高めておきましょう。また、日ごろからいろいろなにおいを意識的に嗅いで、嗅覚を使うことも効果的です」。いくつもの香りを嗅ぎ分けることができる香りのプロの調香師も、たくさん嗅ぐ訓練をすることで嗅覚を鍛えているのだとか。
石川さんは「調香師のように訓練をすると思わなくて大丈夫です。朝食のパンが焼けたにおい、ご飯が炊けるにおい、道端に咲いている花のにおい、入浴剤や柔軟剤のにおいなど、日常にあるにおいを意識して嗅いでみてください。トイレで用を足した後のにおいだっていいですよ。日ごろからしっかり嗅いでおくことで、嗅ぎづらくなったときに気が付きやすいという面もありますから」。嗅覚障害は早期発見、早期治療が肝心。加齢や心因性の嗅覚障害の場合は治療が難しいが、感冒罹患後の嗅覚障害は早めに治療を施せば回復する可能性が高まる。
においに対してアンテナを張っておくことは、日々を丁寧に暮らしてにおいによる喜びを発見することにもつながる。嗅覚が話題になっているこの機会に、自身の「嗅ぐ力」に目を向けて、健康状態の判断材料や生活の楽しみを見つけるきっかけにしてみては。
(監修:順天堂大学大学院医学研究科 耳鼻咽喉科学講座 名誉教授
順天堂東京江東高齢者医療センター 耳鼻咽喉科 特任教授 池田勝久先生)