BOOK 15

孤独と不安のレッスン

(鴻上尚史 著/大和書房/2011年)

 

著者の鴻上尚史さんは、劇作家で、演出家で、役者。とあるWEBサイトで人生相談の連載をもっており、以前たまたまSNSでそれを目にした。

 

そのときの相談に対する回答が、とても深くて、分析的で、丁寧で、感激して「いいね」を押したのを覚えていて。それで、彼の著書を読んでみたくなり、この本を手に取った。

 

この本はタイトルの通り、人間の「孤独」と「不安」について書かれている。

 

孤独と不安は、誰しもが覚える感情。けれども、「ニセモノの孤独」ではなく「本物の孤独」、「後ろ向きの不安」ではなく「前向きの不安」と共に生きることができれば、人は成長し、よりよい人生を送ることができる。

 

鴻上さんはそう述べていて、「本物の孤独」とは何か、「前向きの不安」とは何か、そして、それはどうやったら手に入るのか。そのヒントを彼なりの哲学でもって語っている。

 

実を言うと、この本は自粛期間中に読もうと思っていたのだが、他の本に手を付けてしまい、しばらく放っておいた。そして、ようやく10日くらい前から少しずつ読み始めたのだが、図らずもこのタイミング。

 

ページをめくりながら、どうしても春馬くんのことを考えてしまい、度々天を仰いでしまった。

 

最終章の最後は、こんな言葉で締めくくられている。

 

あなたが、「本当の孤独」と「前向きの不安」を友として、どうか、生きていけますように。「本物の孤独」が深く、「前向きの不安」が強ければ強いほど、素敵に生きていけますように。そして、死なないように。

 

そして、あとがきの最後にも、再び、同じ言葉が書かれていて。

 

死ぬぐらいなら、山奥にでもネットの奥深くにでも海外にでも、逃げて逃げて逃げ続けるように。逃げ続けてさえいれば、やがて、「孤独と不安のレッスン」を再開する体力はつくだろうと僕は信じているのです。

 

そして、再会して、また傷つき死にたくなったら、また逃げればいいのです。大切なことはたったひとつ。どんなことがあっても死なないように。

 

彼がこんなふうに言ってくれる大人に救いを求めることができていれば、何かが違ったかもしれない。たらればで語っても仕方ないけれど、そう思わずにはいられなかった。

 

孤独と不安に、決して終わりはなくて、私たちは死ぬまで、ずっと付き合っていかなければならない。だからこそ、それらから目をそらさずに、糧にして生きていくべきだ。

 

孤独から逃れるとか、不安を解消するとか、そういう方向の自己啓発本はいくらでもあるけれど、上手に付き合っていけばいいんだという視点が、まず新鮮だった。

 

そして、それ以外にも、「こういう考え方をすればいいのか」とか「こういう視点から見ればいいのか」という、納得感のあるメッセージが散りばめられていて、読み進めつつ、思わずいろんなページに付箋を貼ってしまった。

 

これから先、何かにぶち当たったとき、何かに悩んだとき、なるべくその言葉に素早くアクセスできるように。

 

そのうちのいくつかを、簡単に紹介したい。

 

<日本人にとっての「神」は「世間」>

 

キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、一神教。それらを信仰する人たちの行動の価値基準は「神が許すかどうか」。自分が信じる神に心の中で問いかけて、自らの行いを決める。

 

けれども、日本人にそういうものはない。神に代わる役割を果たしてきたのが、「世間」だった。だから日本人は、「誰かに批判されないか」「世間が認めてくれるか」という基準で物事を決めがちである。

 

「世間」に怯えて生きるのではなく、いい意味での孤独(=本当の孤独)のなかで生きる方がいい。

 

<不安とトラブルは違う>

 

「トラブル」は問題が具体的で、それを解消する術がある。しかし、「不安」にはそれがなく、どうしようもないから、鬱々と立ち止まり続け、真面目であればあるほどそれに押しつぶされてしまう。

 

絶対に保証された自信なんてない。それをわかった上で、とにかく始めてみる、動いてみる。不安をエネルギーに変えてステップを踏み出すことができれば、それは「前向きの不安」である。

 

<悩むと考えるは違う>

 

「悩む」は、どうにもならない漠然としたことを思ってウダウダすること。一方「考える」は、不安に対してそれを打ち消すためにリサーチしたり、アイデアを出したり、具体的に動くこと。

 

「考える」場合は、時間が過ぎたら過ぎただけ、何かが残る。その何かをしている時、不安はおさまるものである。

 

<不安にフォーカスを当てない>

 

不安そのものにフォーカスを当て、不安を考えれば考えるほど、不安は成長してしまう。不安に苦しむ人は「自分の世界」だけで苦しみがち。不安は自分にこだわればこだわるほど、大きくなるもの。

 

自分の持っている何か「プラスのもの」を誰かにあげると、自分だけの世界から抜け出せる。

 

自分について考える時間が長いと、「自意識」が大きくなる。自意識は孤独と不安を成長させてしまう。「のん気になる方法」を見つけることで、自意識の鎖を緩めることができる。

 

<「今ある自分」と「ありたい自分」の距離感>

 

自意識が強くなると、自分の行動や言葉、成績や地位などに敏感になっていく。そして、「今ある自分」と「ありたい自分」が離れていってしまう。

 

そして次第に、「ありたい自分」が主となって「今ある自分」の批評を始め、苦しくなる。「ありたい自分」に支配されるのではなく、「今ある自分」がメイン、「ありたい自分」がサブという主従関係が重要。

 

ほんの少し上に「ありたい自分」を置いて、それに向かって努力し、その位置にたどり着いたら、またほんの少しだけ上に「ありたい自分」を置けばいい。

 

 

鴻上さんは、こう書いている。

 

「ありたい自分」の突っ込みの方が、目の前の人間の突っ込みより、何倍もきついんだよ。だって、「今ある自分」を自殺に追い込むんだから。

 

 

嗚呼、もうどうしたって、春馬くんの顔が浮かんでしまうよ。

 

「今ある自分」で十分すぎるくらいステキなのに、「ありたい自分」に支配されて、自分のマイナスな部分ばかりを見つめてしまって。

 

不安を打ち消すために、あれもしなくちゃ、こういう考えも取り入れなくちゃ、あの人がこう言っていたからそれも実践しよう、もっともっと努力しないとダメだ…。

 

いつも「何かが足りない自分」に不安を抱えて、自分で自分を追いつめて。辛くて仕方がないけれど、そんな弱い自分も認められず、誰かに頼ることもできなくて。

 

すべて想像でしかないけれど、そうだとしたら、なんて苦しい生き方だろう。

 

しかし、察するに余りある彼の心中を、これ以上推測しても仕方がない。

 

大切なことは、彼のような想いを抱く人を、1人でも減らすこと。「生きるのがつらい」という想いを、抱かなくていい世の中にすること。

 

言葉を使うことを生業とする人間として、私にもできることがきっとあるはずだ。

 

「悩む」のではなく、ちゃんと「考えて」、前に進みたいと思う。