(監督:今村圭佑/主演:水間ロン/2020年)
冬の間を台湾で過ごし、春になると日本にやってくる鳥、燕(ツバメ)。
台湾人の母と日本人の父の間に生まれ、「燕」と名付けられた青年が、突然いなくなった母への憎しみと愛情の間で揺れ動き、曖昧な自身のアイデンティティに葛藤する物語。
私がこの作品に注目した理由は、次の3点。
昨年、日本アカデミー賞の最優秀賞作品賞を受賞した映画「新聞記者」で、カメラマンを務めた今村圭佑さんの初監督作品であること。
私が好きな森山直太朗の、直近のライブツアーの衣裳を手掛けたsuzuki takayukiさんが衣裳を担当していること。
シンガーの一青窈さんが出演していること(私は役者・一青窈が結構好きだ)。
そしてさらに、映画のメインビジュアルを見て、高橋一生似のイケメンに心惹かれ、劇場で見ることを決めた。
主人公の燕を演じたイケメンの名は、水間ロン。高橋一生似というのは、私の思い違いではないようで、高橋一生が出演した「嘘を愛した女」に出演しており、高橋一生の失踪の謎を追うとき、「似ている人を知っている」という情報をもとに尋ねてみたら、水間ロンだったというエピソードがあるのだ。
もはや、高橋一生似ということで役をもらうほどの、似ているぶりなのである。
それはさておき、話を「燕 Yan」に戻そう。物語の半分以上が台湾で撮影され、セリフは中国語と日本語が入り混じっていて、異国情緒感たっぷりの世界観。
主人公の燕は、父と母、兄と4人で日本で暮らしていたが、5歳のときに、母が兄を連れて突然、台湾へと帰ってしまう。
母も兄も、まったく連絡をくれることはなく、母に捨てられたと思って生きてきた燕。しばらくして母が病気になったと知らせがきたときも、亡くなったと聞いたときも、燕は頑なに台湾に足を運ぼうとはしなかった。
しかし、父に頼まれて、兄にある書類を届けるべく、台湾へ向かう。兄とは実に、23年ぶりの対面だった。
お互い心の中に抱えていたモヤモヤと、ツラい過去と、自分が何者であるのかわからない歪んだアイデンティティ。それをぶつけ合ったとき、燕の頑なな心を溶かす、真実が見えてくる。
映画の後半に、燕が兄の子どもに「俺は、台湾人と日本人、どっちだと思う?」と尋ねるシーンがある。
それに対して、子どもは「どっちでもいい」と答えるのだが、それがこの映画のすべてだと、このセリフがテーマの核心であると、すぐにわかった。
日本で暮らしていたとき、日本語があまり話せない燕の母は、周囲から差別を受ける。また、燕も母が日本人でないことで同級生にからかわれてしまう。
その苦い思い出があるからこそ、「自分は台湾人か日本人か」という問いを、心の中にずっと抱き続け、悩みながら生きてきた燕。
でも、それが「どっちでもいい」ことなのだ、自分は自分なのだとわかったとき、燕の心は解放されたのだ。
人種や性別、性的マイノリティなど、最近、「差別」について考える機会が多いが、どうしてみんな「どっちでもいい」と思うことができないんだろうと、この映画を見て悲しくなってしまった。
自分と違う、みんなと違う。そんな理由で線引きをするけれど、冷静に考えたら人間はみんな違うんだから、自分以外の人は拒絶対象になってしまう。なのにどうして、自分が今している「差別」を正当化できるのだろうかと。
今村圭佑監督の撮った映像の美しさが、そういう深いテーマをより色濃く、鮮明に映し出しているように感じた。
とにかく、映像における光の使い方がとっても上手。窓から差し込む陽の光、息苦しい部屋にさし込む街灯の光、なまめかしい街のネオン。それらが一つ一つのシーンをより魅力的に見せ、説得力をもたせている。
そこから撮るのかぁと感心してしまうようなカメラワークも秀逸だし、さすが、話題の映画やMVに引っ張りだこの今村さんだ。
水間ロン、兄役の山中崇をはじめ、役者陣の飾らない、リアリティのある演技も素晴らしかった。
全国公開中だが、限られた映画館でしか上映していないので、注意。東京はアップリンク吉祥寺と渋谷、新宿シネマカリテのみ。いずれもミニシアター。
まぁ、キャスト的にもテーマ的にも話題になるような作品ではないけれど、こういう良作こそ、多くの人に見てほしいと思ってしまう。詳細は、映画の公式WEBサイトで。