精神0

(監督・撮影:想田和弘/2020年)

82歳の精神科医・山本昌知さんを追ったドキュメンタリー映画。

 

12年前の2008年に「精神」というタイトルで、同様に山本医師を撮った作品が世に出ていたらしい。

 

今回は、山本医師が引退を決意したとのことで、引退直前の医師としての姿、そして認知症の妻との日常が切り取られている。

 

想田和弘監督は、自らの撮るドキュメンタリー映画を「観察映画」と呼び、独自の撮影方法を提唱し、実践してきた人物だ。

 

彼の示している「観察映画十戒」というマイルールが、とても興味深い。

 

1.被写体や題材に関するリサーチは行わない。

 

2.被写体との撮影内容に関する打ち合わせは、原則行わない。

 

3.台本は書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。

 

4.機動性を高め臨機応変に状況に即応するため、カメラは原則僕が回し、録音も自分で行う。

 

5.必要ないかも?と思っても、カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す。

 

6.撮影は、「広く浅く」ではなく、「狭く深く」を心がける。「多角的な取材をしている」という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む。

 

7.編集作業でも、予めテーマを設定しない。

 

8.ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。それらの装置は、観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう嫌いがある。

 

9.観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。

 

10.制作費は基本的に自社で出す。カネを出したら口も出したくなるのが人情だから、ヒモ付きの投資は一切受けない。作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはアリ。

 

テレビでも、ドキュメンタリーと名の付くものはたくさん放送されていて、私はその類の番組を見るのが好きな方だ。特に、フジテレビ系で日曜の昼に放送している「ノンフィクション」がお気に入り。

 

「情熱大陸」とか「セブンルール」とか「プロフェッショナル」などと比較して、主人公をとにかく魅力的に見せよう、かっこよく見せようとしておらず、リアリティがあるところがいい。

 

その点において、想田監督の「観察映画十戒」に基づいた作品は、「ノンフィクション」以上に被写体をありのままに映し出すことに成功していて、個人的にとても好きなドキュメンタリーの方向性だ。

 

ナレーションもテロップもBGMもないから、被写体のしぐさや表情などから、多くのことを感じ取らなければならない。そして、その感じ方は見る人に委ねられる。

 

映像は時に大きくブレるし、ピントがずれることもあって、必ずしもかっこいい画ではない。

 

だから、「情熱大陸」あたりが好きな人にとっては、ちょっと退屈で、リアル過ぎて、映画としての満足度は低く感じるかもしれないなと思う。

 

(これは、あくまで好みの問題で、「情熱大陸」が悪いとは思わないし、かく言う私も、わりとあの番組はよく見る)

 

82歳の山本医師は、私の感じた限り、仏のような心を持つ人物だった。

 

彼の医院は「心療内科」ではなく「精神科」だから、不眠だとか、鬱だとか「心の風邪」というレベルではなく、心が壊れた人たちを相手にする。

 

普通の話が通じない、自分を正当化して意見をまくしたてる、薬でもやってるのかと思うような呂律のまわらない口調で謎の言葉を発し続ける、挙句の果てに山本医師に金の無心までする……。

 

言葉は悪いが、世の中で「ヤバい人」と認定されるような人たちに対して、丁寧にそして自然体に向き合う山本医師の姿に、驚きを隠せなかった。

 

想田監督は、そんな山本医師のことを、こんな風に書いている。

 

「彼のあらゆる行動が、静かで豊かな慈愛の情によって基礎づけられていることに気づかされる」

 

慈愛の情。まさに、それだ。いったいどこから湧いてくるのだろうかと思うような慈愛の情が、患者たちを温かく包み込み、山本医師は長きにわたり、患者たちから絶大な信頼を寄せられてきた。

 

外から見たら、「信頼」を飛び越えて、もはや「依存」とも呼べるようなレベルで。

 

何よりすごいのは、山本医師は精神に問題を抱える人たちとの「共生」を、仕事をする上でのテーマに掲げているということ。

 

山本医師にとって、患者とのコミュニケーションは、仕事ではなく、生きることそのものだということだ。

 

だから、患者に対して、「辛いことを乗り越えて、今生きているあなたに、私はたくさんのことを教えてもらっている。ありがとう」という言葉すら、かけることができるのである。

 

そしてまた、もはや住み慣れたはずの自宅のドアの開け方すらわからなくなってしまった、認知症の妻への接し方もまた、深い深い慈愛の情に満ちている。

 

妻は中学・高校の同級生で、成績は学年でいつも一番の、とても優秀な人だったという。途中に挟みこまれた過去の映像を見る限り、ちゃきちゃきと動く、山本医師を縁の下から支えるしっかり者の奥さんという感じ。

 

そんな妻の面影は、もうない。普通のコミュニケーションも、とれない。

 

テーブルの上に置いたものを「そこじゃなく下に置いて」と言っても、いったん持ち上げはするが、すぐにテーブルに戻してしまう。

 

親の墓参りに行っても、どこに来たのか理解できないし、もちろん墓の場所も覚えておらず、墓石を磨いたり花を生けたりする山本医師のそばでただ、ウロウロするばかり。

 

けれども、そんな妻に対して、山本医師は一度も、ちっとも嫌な顔などせず、まるで妻がずっとそうだったかのように、それが当たり前であるかのように、手を貸し、助け、寄り添う。

 

もし自分が山本医師の立場だったら、こんな風にいられるだろうか。いや、絶対に無理だ。

 

山本医師自身も、高齢で、もはやテキパキは動けないし、少し耳が遠くなっているし、家事が得意なわけでもない。まさに、老老介護の状態。

 

映画のなかでは、妻はまだ自分でトイレに行くことができていたが、できなくなるのも時間の問題だろう。

 

そうなっても、きっと、山本医師は妻のために、腹を立てることもなく、できる限りのことをするはずだ。それがまるで当然のことのように。

 

使用済みの食器がたまった流し台、椀に入れてお湯を注ぐだけのインスタントスープに手こずる様子、カバンの中をあさってもなかなか見つけられない財布、「お茶にしよう」と言って用意するのがまんじゅう&アクエリアスの組み合わせ……。

 

一見、このシーン必要?と思うような何気ない映像のなかから、医師としては一流だけれど、決して器用ではない山本医師の普段の様子を見て取れた。

 

さらに、その息遣いや歩き方、仕草から、老体に鞭を打っていることもわかったし、妻の認知症がどの程度のものなのかも、いくつものシーンの積み重ねから理解できた。

 

まさに、「観察映画十戒」の一つ、「5.必要ないかも?と思っても、カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す。」見る者に事実を突きつけているように感じた。

 

映画は、墓参りの帰り道、手をつなぐ山本夫妻の後ろ姿で幕を閉じる。それを見つめながら、これからのふたりに想いを馳せ、思わず涙が出そうになった。

 

その涙は、老いの残酷さに対する悲しみでもあり、きっと最期の日まで幸せを感じながら生きるであろうふたりに対する希望でもあり。ひと言では語ることのできない涙だ。

 

映画より、映画している。やっぱりドキュメンタリーはおもしろい。

 

東京では、渋谷のシアター・イメージフォーラムにて公開中。詳細は、公式WEBサイトで。