聖なる犯罪者

(監督:ヤン・コマサ/主演:バルトシュ・ビィエレニア/2019年)

 

2019年ヴェネチア国際映画祭、トロント国際映画祭ほか世界中の映画祭で上映され、数多くの賞を獲得。

また、第92回アカデミー賞®国際長編映画賞にもノミネートされた、ポーランドの作品だ。

 

殺人の罪で少年院に収監されている20歳のダニエルは、少年院へ説教をしに訪れる神父の影響で熱心なキリスト教徒となる。そして、前科者は聖職者になれないと知りながらも、神父になることを夢見た。

 

ある日、仮釈放が決まり、ダニエルは少年院から遠く離れた田舎の製材所に就職することに。

製材所へ足を運ぶものの、これからのここでの生活に暗澹たるものを感じ、近くの教会へふらりと立ち寄る。

 

そこに居合わせた少女に「自分は司祭だ」と冗談を言って、神父にもらった司祭服を見せると、少女はそれを信じてしまう。

そして、アルコール依存症の治療で教会を離れる司祭に代わって、しばらく司祭を務めてほしいと依頼される。

 

憧れの仕事とは言え、神学校に通った経験はなく、少年院で受けた説教と聖書だけが彼のキリスト教の知識のすべて。

いきなりミサを任されるも、何をどうしていいかわからない。しかし、行き当たりばったりでやった、はったりの説教が意外にも村人たちの心に響き、ミサは成功。

 

スマホでやり方を調べながら、告解も上手くこなし、次第に、犯罪者であるダニエルは、聖職者として村人の信頼を得ていく……。

 

 

ちょっとした冗談によって、犯罪歴のある青年が司祭に祀り上げられる、前半のこの展開は、コメディっぽく描こうと思えばできると思うのだが、がっつりシリアス。

 

ザラリとしたグレイッシュなトーンで撮られた映像が、作品全体に物悲しさや怪しさを醸し出していたし、少年院内での陰湿ないじめのシーンや、少年院を出てダニエルが向かった製材所の様子が、前科者が歩まざるを得ない人生の暗雲低迷さを物語っており、序盤からざわざわと胸が波打った。

 

「少年院を出たら酒もタバコもやらないこと」。そう神父と約束したにもかかわらず、出所後いきなり浴びるように酒を飲み、さらにはドラッグまでキメてクラブで踊りまくり、知らない女とセックスをする。

 

まったくもって聖職者になりたい男のすることではないのだが、こういうことを何の罪悪感もなくやってしまうところに、ダニエルの心の弱さや、安直さ、これからの人生への悲観が表れている気がした。

 

ドラッグのせいで開き切った瞳孔を爛々とさせながら、狂ったように踊るダニエルの表情は衝撃的で、彼の今後の人生が多難であることを容易に想像させた。

 

ここまでですでに、主演のバルトシュ・ビィエレニアの高い表現力と、陰のある魅力が大爆発。知らないうちに、物語の世界観にすっかり引き込まれてしまっていた。

 

 

司祭の代わりを務め始めてすぐ、ダニエルは1年前に村で起きた悲惨な交通事故のことを知る。若者7人の命を奪った事故は、村人たちに深い傷を与え、遺族は未だ癒えぬ心を持て余して、途方に暮れていた。

 

見よう見まねで司祭のフリを続けていたダニエルは、遺族の心を救おうと行動を起こすのだが、そのやり方が意味不明。

遺族に犠牲者の写真の前で大声で叫ばせたり、大事な遺品を回収したり、飲酒運転で事故を起こしたと言われて村八分にされている、亡くなった男性の妻の元を訪れたり。

 

しかし、ダニエルの不思議な行動に戸惑いつつも、遺族は、「司祭が自分たちを救おうとしてくれている」と心を動かされ、より一層、ダニエルに信頼を寄せていくのである。

 

村の若者たちと交流したり、子どもたちと遊んだり。どんどんと村に馴染んでいくダニエル。本物の司祭でないだけでなく、犯罪者であるという、大きな秘密をひた隠し続けながら……。

 

 

ちょうど、この作品を見に行く直前、私は『私とは何か「個人」から「分人」へ(平野啓一郎著/講談社現代新書)』を読んでいた。

 

その本には、「たった一つの『本当の自分』というものは存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて『本当の自分』である」と書かれている。

 

例えば、自分の前ではいつも優しく穏やかに振る舞っている友人が、インターネット上で過激な発言をしているのを知ったとき、人は「本当の彼はこういう人だったのか」と驚く。

 

しかし、自分が知っている面が「裏の顔」で、知らなかった姿は「本当の顔」だというのは間違っている。優しくて穏やかな友人と、過激な発言をしている友人。どちらが裏でどちらが表でもない。どちらも同列の「本当の顔」なのだ。

 

おそらく、ダニエルの秘密を知ったならば、村人たちは、「本当の彼」は犯罪者だったと、恐れおののくだろう。きっと、見ている側にとっても、ダニエルは「本当の顔」を隠して村人たちと接している、そんな風に映るに違いない。

 

でも私は、鑑賞前に読んだ本の影響で「たった一つの『本当の自分』というものは存在しない」という概念が頭にあり、彼が「本当の自分」を隠しているという見方はしなかった。さらには、秘密を抱えたダニエルの、どの面がいったい「本当の彼」なのだろうということも、考えなかった。

 

人を殺して少年院に入っていたダニエル、キリスト教に傾倒して聖職者を夢見るダニエル、神父との約束を破って酒・ドラッグ・女に溺れるダニエル。

司祭として人の心をつかむことに快感を覚えるダニエル、いたましい事故を知って遺族の心を癒そうとするダニエル、村の子どもたちと楽しく遊ぶダニエル……。

 

そのどれもが、すべて「本当の彼」であり、それは揺るぎのない事実なのだ。

 

作品のポスターには、「目の前にある真実を信じるな」というキャッチコピーが書かれている。

 

これは、司祭のフリをしている人間を、何の根拠もなく信じ、まんまと心を動かされている村人たちの浅はかな様を表しているのだろう。

 

しかし私は、この作品の本質はそこにはないような気がした。

 

まったく性格の異なるいくつもの「本当の自分」を生き、最も自分が充足感を覚えるのは「聖職者である自分」だと思えたにもかかわらず、所詮、それは偽りの姿でしかないことがわかりきっている。そんなダニエルの胸の内。

 

前科がある以上、どうあがいても「聖職者である自分」は幻でしかない。バレてしまったら、泡のように消えてなくなる、大切な「本当の自分」。

 

そんな、20歳の若者の、残酷でやるせないアイデンティティ・クライシスが、この作品の主題だったのではないか。私はそんな風に思った。

 

結局、同じ少年院にいた男に、ニセの司祭であることをバラされ、ダニエルは少年院へ逆戻りする。そして、その後がまったく読めない、激烈なラストを迎える。ダニエルの崩壊したアイデンティティは、いったいどうなってしまうのか。気になって仕方がない終わり方だった。

 

鑑賞後、衝撃を受けたことが2つある。それが、これが実話をもとに作られた作品であること。そして、監督のヤン・コマサが、私と同い年であるということ。

 

なんてこった。どこで学んだわけでもないのに、自らを司祭と偽り、堂々と教会に入り込んだ男が実際にいるということか。そして、犯罪者が演じた偽りの司祭を信用した人々が、実際にいるということか。

 

なんてこった。こんなにも深くて、美しくて、悲しい作品を、同い年が撮っているだなんて。ニセ司祭にまんまと騙された村人以上に、自分が浅はかに思えてくる。精進せねば。